左折可の道

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沈みかけた赤い太陽が、道路の真正面からフロントガラスに差し込む。 賢司は、鬱陶しそうに目を細めながらも、こんな早い時間に、自宅に帰ることができる開放感を感じながら、ハンドルを握っていた。 いつもなら、まだ明日に持ち越せない仕事を前にして、ウンザリしている時間だろう。 それにしても、さっきから気になることがある。 賢司の前には、3台の車が走っているのだけれど、ずっと停まったままだ。 いや、それは当然な話ではある。 目の前の信号が、赤だからだ。 しかし、運の悪い日というのはあるものなのか、今日は、会社を出てからというもの、何度も、何度も、赤信号に引っかかっている。 今の時代、主要道路の信号機は、道路を監視しているセンターのような施設から、遠隔で操作してるのではなかったか。 出来るだけ、スムーズに車が流れるように、一定速度で走れば、赤信号には当たらずに、ずっと青で通過できる。 そんな話を、いつだったか、テレビで見た記憶がある。 しかし、また赤信号だ。 前の車も、後ろの車も、同じように停まっている。 仕方がない、僕だけではないんだからと、賢司は自分にむけて呟いていた。 ラジオを点けると、ラジオショッピングをやっている。 実物も見ないで、ラジオの説明だけで買う人なんているのかなと思って聞いていたら、終わるころには、買ってみようかという気になっていたのが自分でも可笑しい。 やっと走り出したが、なかなか速度があがらない。 そして、次の信号機に引っかかった。 「また、赤だ。」 こんなことをしていたら、折角、早く仕事が終わって帰れるのに、どんどん、その楽しみが減ってきているじゃないか。 賢司は、赤信号機に腹が立つという感情ではなく、自由な時間を失おうとしているという損をしている感情に、イライラしてきていた。 しかし、今度の信号は、なかなか青に変わらない。 どうしたんだ、故障しているのか。 周りの車の運転手を見ると、なんともない日常の顔で運転席に座っている。 後ろの車なんて、助手席の女の子と、楽しそうに話をしているじゃないか。 まあ、相手が女の子なら、車が走ろうが止まろうが、そんなの関係ないのだろう。 でも、信号が青に変わらないってことには気が付くだろう。 不思議に思わないのだろうか。 どうなっているんだ。 「みんな、信号がずっと赤なんだよ。」と、周りの車に訴えたかったが、みんな信号の事なんて意に介さない様子なので、どうしようもない。 「くそっ。」 そう言った賢司は、普段使う事のない言葉を言ってしまった自分に驚いた。 今日は、出かけるときに、嫁さんがカレーの材料を用意しているのを知っている。 帰ったら、好物のカレーを食べて、あとはお気に入りのマッカランをロックで飲みながら、嫁さんと撮りためたビデオでも見るかと考えていた。 これなら、ビデオも長編の映画は無理だなと、ため息をついた。 しかし、信号機が青に変わらない。 背伸びをして前方を見ようとするが、普段と変わらないただの赤信号だ。 まわりの車も、お行儀よく整列している。 隣の車を見ていたら、運転手と目が合った。 賢司は、ジェスチャーで、前の信号機、どうなってるの?という風に伝えてみる。 相手は、その意味が通じなかったようで、笑顔で会釈をして、また前を向いた。 しかし、どうして、こうも他の車は、お行儀が良いのだ。 何かが原因で止まっているなら、クラクションの1つも聞こえてきそうなものだが。 静かに、車の列が続いている。 いつもは、帰宅が12時前だから、もう始めから諦めていて、早く帰りたいなんて思ったことが無かった。 でも、今日は、珍しく早く帰れたものだから、兎に角、早く帰りたいという気持ちが止まらない。 ふと、左の車線に気が付いて、その先を見ると、「左折可」とあるではないか。 或いは、別の道から行った方が、これは早いかもしれない。 細い道が近道になるのかは知らないが、ここで赤信号に何度も止められるより、よっぱどストレスからは解放されるはずだ。 賢司は、ハンドルを左に切って、左折可のところを、「さあ、行くぞ。」とばかりに左に曲がる。 何とか、車がすれ違う事の出来るぐらいの幅がある。 そのまま、今までの道と直角になった道を走らせる。 すぐに、小さな交差点があったので、そこを右折する。 四方を見渡すと、この細い道の交差点には、信号機が無い。 「ほら見てみろ。こっちが正解だ。」 と、勝ち誇ったように、声に出して言った。 急に気分が良くなって、テレサ・テンの題名を忘れた歌を、口ずさんでいた。 すると、対向車が、何度もクラクションを鳴らして、すれ違った。 「何なんだ、あの車は。」 すると、また対向車が、クラクションを鳴らしてすれ違う。 理由は解らないまま、賢司は首をひねった。 その理由は、次の交差点に来た時に分かった。 一方通行の道を逆走していたのだ。 「ということはだ、ここを左折して、また右折したら、良いはずだ。」と、もう1本向こうの道は、反対方向の一方通行だろうと考えて、車を走らせる。 「よし、今度は、間違いがない。」 方向を確認して、しばらく車を走らせる。 始めの道を走ってたなら、今頃まだ、ほとんど動けてない筈だ。 これなら、まだマッカランをやりながら、映画の1本も見ることが出来そうだ。 しかし、そろそろ、始めの道に戻らなきゃいけない。 何しろ、自宅は、始めの道を右折する方向にある。 賢司は、今度は、右折をして、始めの道に戻ろうと考えた。 しかし、右側に大きな工場のような施設があって、右折できない。 「こんな施設あったかな。」 不思議な気持ちで賢司がつぶやく。 その施設を通り過ぎたら、細い道が終わって、始めの道に直角に交わっている4車線の広い道に突き当たる。 しかし、やっぱり信号機が赤だ。 やっと、青になって発車したけれども、目の前の道は、中央に分離帯があって、左折しかできない。 また、自宅から遠い方へ行こうとしているじゃないか。 ため息をつきながら、ハンドルを握って、後ろの車を見ると、始めの道で賢司の後ろにいたカップルの車だ。 賢司は、かなり距離を稼いだと思ったが、実際は、ずっと、始めの道を走らせていたのと同じじゃないか。 いや、同じじゃない。 後ろのカップルは、楽しそうにアイスクリームを食べてるじゃないか。 ということはだ、途中で、コンビニに寄っている筈だ。 そのまま走らせた方が、早かったのか。 賢司は、軽くハンドルを両手で叩いた。 しかし、こうやっていてはいけない。 自宅は、反対の方角だ。 兎に角、追い越し車線に入って、右折をしよう。 それにしても、今日は、ひょっとしたら、星占いでも、四柱推命でも、手相でも、きっと、最悪と出る日なんだろうな。 半分、諦めた気持ちで、右折をした。 しかし、そんなことを考えていたものだから、Uターンをするのを間違って、また細い道に入ってしまう。 最悪だ。 それからは、どこをどうやって走ったのかは、もう分からなくなっていた。 右へ走らせ、左へまがり、自分でも、何処を走っているのか、判然としない。 気が付くと、川があった。 川ぞいの道に車を止める。 このままじゃ、まずいと思ったのだ。 カーナビを付けろ付けろと奥さんに言われながらも、いつも同じ道しか走らないので、付けずにここまで来た。 「バチが当たったかな。」と、気分転換に窓を開ける。 すると、静かに1台の車が隣に来て停まった。 見ると、前の道を走らせていた隣の車だ。 賢司に会釈をした男だった。 賢司を見つけると、車を降りて近寄ってくる。 「あなたも、赤信号ですか。」 さっきは気が付かなかったが、疲れ果てた様子で、スーツも汗ばんでいるというか、汗臭くさい。 「ええ、何故か赤信号に引っかかっちゃって、それで脇道に入ったら、道を失ってしまって、ちょっと、気分転換して道を探そうと思っているところです。」 「やっぱり。いつからですか。」と聞いた。 「いや、今日、早めに会社を出たんですよ。もう1時間ぐらい迷ってますよ。」 力なく笑いながら賢司は男に言った。 「そうなんですね。今日なんですね。じゃ、まだ希望はありますね。ガンバッテ帰り着いてくださいね。」 賢司は、不思議に思って男に聞いてみる。 「あの、あなたも赤信号ですか。」 「ええ、わたしは、もう1週間ぐらいになります。」 賢司は、にわかには信じられずに、「1週間。」と、それだけ言った。 男は、賢司に、これから起こるかもしれない、そして、男自身に起きたことを、話し始める。 男が、会社を出たのは、1週間前だという。 その日も、赤信号に引っかかってばかりで、そこで賢司が考えたように、左折をしたらしい。 そこからは、もう、どこをどう走ったら良いか分からなくなってしまって、まだ、今でも家にたどり着けないのだという。 「それでもね、クレジットカードを持っていたからね、何とかガソリンも入れることが出来たし、食事もすることが出来たんだよ。でも、携帯がね、バッテリー切れでさ、2日ぐらいしたら、奥さんに電話できくなったんだ。始めのうちは、僕のことを心配してくれていたんだけれど、2日ぐらいしたら、急に態度が変わって来てさ、道に迷って帰れないなんて、誰だって信じられないよね。それで、携帯が切れたから、公衆電話を探して、やっと掛けたら、もう出ないんだよね。きっと、怒っているんだよね。それはそうだよね。」 男が、ため息をつきながら、賢司の車の屋根に手を掛ける。 「だから、早く帰ってあげて、安心させてあげたいんだよ。」 「それは、心配ですね。でも、本当に、そんなことがあるんですか。」 「あるんですかって、あなたも、家に帰れてないじゃないですか。」 「いや、私は、さっき会社を出たばかりだから、今日中には帰れると思いますよ。そんな、1週間って、信じられないですよ。」 「その内、分かりますよ。」 男は、事態を飲み込めていない哀れな人間を見るように、賢司に言った。 「じゃ、私は、車を売って、家に帰ります。」と、少しばかり晴れやかな表情になって言った。 「帰りますって、どうやって帰るんですか。もう、1週間も、帰れてないんでしょ。」 「ええ、この車を売るんです。売って、電車で帰ります。」 男が、川沿いの道を目で示した。 そこには10台ほどの車が停まっている。 そして、そこにマジックペンで板の切れ端に書かれた看板があった。 「車買います。1台5000円。」 「あれですか。でも、5000円って、安過ぎはしませんか。だって、この車だって、まだ新しそうだし。」 「ええ、一昨年、200万円で買いました。」 「200万円ですか。それを、5000円って、もう少し冷静に考えた方が良いですよ。」 「何度も考えましたよ。でも、もう疲れました。5000円あれば、電車で家に帰ることが出来るんです。家に帰ることも出来ない車なんて、私にとったら、無価値です。」 男は、よっぽど追い詰められているようで、ただ、帰ると決めたら、気持ちがスッキリしたようでもあった。 「さっきね、コンビニで携帯のバッテリーを買って電話したんです。携帯には出ないから、自宅に電話したら、この電話は現在使われていませんっていうメッセージが流れるんです。きっと、奥さんに何かあったと思うんです。早く帰って安心させてあげたいんです。」 そう言って、車買いますの看板まで小走りで向かった。 そして、握り締めた5000円札を、高々と上にあげて、賢司に笑顔でみせた。 男の自宅の電話が解約されていることが気になったが、兎に角、この迷い道から脱出できたことは、これこそは、解放されたということだろう。 しかし、自宅の電話を解約するなんて、もし奥さんが、まだ夫婦生活を続ける気なら、そんなことをするだろうか。 男の後姿が可哀想に見えた。 しかし、他人に同情している場合じゃない。 男の話が、もし本当なら、事態は深刻だ。 賢司は、今自分に起きていることを思い出してみた。 これは間違いなく現実だ。 そして、彼は1週間、家に帰れていない。 そして、今、目の前で、彼は200万円の車を、5000円で売ってしまった。 これも事実じゃないか。 ということはだ、この事実が、自分の身に起きても不思議じゃない。 現に、今までの事を考えると、もう既に、起き始めている気がする。 そう考えると、急に、自分の家が、たどり着けない場所に思えてきた。 このままの事態が、永遠に続くのかもしれない。 賢司は、突然、言いようのない焦りと、不安がこみあげて来た。 こうしてはいられない。 賢司は、奥さんに電話をした。 「あ、僕だけど。何か、今日は最悪の日でさ、今帰り道なんだけれど、道に迷っちゃって。ちょっと遅くなるかもしれないよ。」 「急にどうしたの、いつも帰り遅いじゃない。今日に限って、電話してくるなんて、あ、なんか怪しいね。助手席に若い女の人座ってたりして。」 「あのさ、隣に女の子がいたら、奥さんに電話しないでしょ。なんか赤信号の呪いなのかな、ずっと、道を探してグルグル回ってるんだよ。だから、いつ帰れるか分からないんだ。」 「何を馬鹿な事言ってるの、もうカレー出来てるよ。早く帰ってらっしゃい。」 「自分でも馬鹿だと思うよ。でもね、さっき僕みたいに道に迷った人に会ってね、その人は1週間、家に帰れなかったんだって。信じられる?信じられないよね。」 「だから、どうしちゃったのよ。早く帰って来て。」 「うん。じゃ、車売って、電車で帰ろうかな。へへ、車売って帰った方がいいよね。へへへ。」 「ねえ、ねえ。本当に大丈夫?」 奥さんは、夫との会話で、何か理由の説明できない事態に、自分の夫が巻き込まれていると感じた。 「あのさ、あたし、迎えに行くから。ねえ、迎えに行くから、あなた、そこにいてくれる?」 「迎えに行くって、大丈夫だよ。」 「いえ、おかしいわよ。今日のあなた。だから、そこで待ってて。どこなの、何か目印になる建物とかある?」 「そうだな。川がある。えーっと、そうだ、住所の標識に、「幸町」って書いてあるよ。1丁目だ、幸町の1丁目。橋の名前はね、戻り橋だって。」 「わかった、じゃ、すぐに行くから、待っててね。」 奥さんは、いつもとは違う賢司に、説明の出来ない不安感を抱いていた。 早く行かなければ。 早く行かなければ、今の現実とは違う、別の世界に賢司が行ってしまうのではないかという不安に焦っていた。 10分ほどして、賢司の携帯に奥さんから電話が掛かって来た。 「ねえ、あなた。今、家を出て、タクシー捕まえたからね。もうすぐだから、待っててね。」 「ああ、分かった。悪いね、こんな大袈裟なことになっちゃって。」 「いいじゃない。何か、面白いよね。探偵ごっこしてるみたい。」 良かったと、賢司は、内心ホッとしていた。 もちろん、自分では、落ち着けば、道も思い出して帰れることは分かってるんだけれど、それでも、奥さんが、迎えに来てくれるなんてことを言ってくれるのは、意外でもあったし、その意外が、少し、嬉しくもあったのだ。 これで、帰れるな、そう思って、車買いますの看板を見ると、男がこっちを見ている。 「車、売らないよ。」と、相手には聞こえないが、車内で呟いて、男に会釈をした。 こんな商売もあるんだなと不思議な気持ちで、売られた車の列を見ていた。 しかも、ちゃんと商売として成り立ってるんだ。 そんなことを考えていたら、奥さんから携帯に、また電話が掛かった。 その声が、焦っている。 「あ、あなた。実は、赤信号がね、赤信号ばっかりで、進まないのよ。どうしちゃったんだろう。こんなことあるかな。赤信号ばっかりなのよ。それで、運転手さんが、左折可の道を見つけたから、そっちから行ってみるって言ってくれてるの。だから、もうちょっと待っててね。」 「えっ、赤信号ばっかり。左折可。ちょっと待って、ねえ、ちょっと待って。その左折可は、行っちゃダメだ。すぐに、タクシーを降りなさい。すぐに、タクシーを降りて。左折可は、行っちゃダメだ。あれ?ねえ、聞いている?あれ、電話通じない。」 「ねえ、あなた、何?何なの?聞こえないよ。電波おかしいよ。ねえ。」 賢司の携帯のバッテリーが、ゼロパーセントになっていた。
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