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私は彼の前に立ったまま、平然と後ろ手をして、その顔をじっと見つめていた。彼は少し気圧されるような、そんな様子でいる。
「聞いてるのか」
「聞いてます」
窓のブラインドにしきられた、眩しい午前の光が、相変わらず彼の顔を刺し続けている。見るとかけている眼鏡が、うっすら手の油で汚れている。
「はい」
そう言って、私は手を差し出した。
「なんだよ」
「眼鏡、出しなさい」
彼は困ったように一瞬眉根を寄せると、入口の扉に向かって誰かが入ってこないか、心配そうに目をやっていた。
そういう、この頃のひどく小心な仕草も気に入らないのだ。
「……早く」
私がさらに手を差し出すと、彼は仕方なさそうに、眼鏡を取り外して手渡した。私はワンピースのポケットからいつものように眼鏡拭きを取り出すと、汚れたレンズに息を吐きかけて磨き始めた。
彼に背を向けたまま、窓の光にレンズを透かせつつ、せっせと無心に磨いているその姿を、彼が深いため息をつきながら眺めているのがわかった。
「で、用件は何」
彼の背後には、資料や書籍のたくさん詰まったグレーのアルミ棚があって、その扉のガラスに彼の苦笑いする横顔が映り込んでいる。
「用件、か」
「……だって用があるから、私を呼んだんでしょう」
彼は体を伸ばして、椅子の背もたれにもたれた。ギイッ、と耳障りな音を立てる。
「まったく呆れるよな」
「そう?」
「一応、この場じゃ君の上司なんだぞ俺は」
しばらく、お互いに黙り込んだ。彼の不機嫌そうな咳払いが、そのあいだに挟まる。
「あのな、例の社会学の佐々木教授の原稿へのお礼の件。あれ、今から行って来て欲しいんだ」
「……」
「先方には、もう連絡済みだから」
どうせそのことだろうな、とは思っていた。なにせ佐々木教授の担当編集者はこの私なのだから。
「嫌だ、って言ったら」
ハーッ、と誠一の眼鏡に息を吐きかけるたび、一瞬そこに霜がおりたように、レンズにうっすらとした白みが宿る。私はまるで鬼の首をとったように、さっきからその眼鏡を磨き続けている。
彼の瞳に、窓枠のかたちに光が映りこんで輝いていた。瞳孔や深緑の虹彩の縞模様まで、私からははっきりと見える。
ロマンス・グレー、とでも言うのだろうか。かつての世を儚み、革命を夢見て挫折した、文学青年の面影もかくや、といった、そんな端正な憂い顔。
でもいま、そんな表情に強いてさせているのはお前の方じゃないか、とでもその顔は言いたげだった。
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