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「なあ、谷口くん」
背もたれに身を預けたまま、彼はそう言って窓の外に目を細めた。
「もう、あゆみでいいじゃない」
誠一は普段、決して職場では、私の下の名前など口には出さない。口に出さないどころか……私との不倫関係を想像させる、その何物をもしない。
その徹底ぶりは、見ていて感心するほどだ。緻密に綿密に、絶対に表沙汰にならないよう考え抜いている。
この感じも、私には安保闘争当時の左翼学生の敏感さを思い起こさせる。互いに内ゲバをつねに恐れあっているような。
「……頼むから、もうわかってくれないか」
彼は呻くようにそう呟くと、噛んでふくめるようにして、さらに続けた。
「何を」
「いいかい。君はまだ、若いんだ。自分みたいな年寄りに、いつまでもかかずらってちゃいかんのだと、俺は思う」
私は眼鏡を拭くのをやめると黙りこんだ。私たち二人きりの文芸編集部に、また水を打ったかのように静寂が広がる。
かわりにまたうっすらと、窓の外の喧騒が聞こえ出した。
「じゃあ、あなたはどうしたいっていうの」
「だから何度も言ってるじゃないか」
ブラインドのかかった窓から入る光を受けながら、彼はまた大きくため息をつくと、両手を組んで腹の上に置いた。ピンストライプのシャツの上で、ブルーの光沢あるネクタイが軽く折れ曲がる。胸のポケットには、いつものお気に入りのモンブランのボールペンが差し込まれている。
しかしよくもまあ、そんな口から出まかせを、スラスラ言えるものだと逆に感心してしまう。
何故なら、私がまだ若いだとか、自分のような年寄りにだとかーーそんなことは、ただの詭弁にしか過ぎないからなのだ。
私がこれまでに観察した限りでは、彼と奥さんとの関係はーー底の底まで冷え切っていた。半月に一度は、二人の住む豊洲のタワマンに双眼鏡を持って出向くのだが、そのレンズの向こうで、二人が仲睦まじくどころか、会話を交わしているのすらを、ほとんど見たことがない。
二人に、子供はいなかった。そのかわり、黒のトイプードルを一匹飼っている。名前は、エミール。彼が学生時代から好きなフランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーの本から取っているのだ。
今年で二歳になるその犬を、月に一度、駅前のペット美容室に連れていく。その役目は毎回当然のように彼だ。それは私と関係を持つ前でも後でも変わらない。
いずれにせよ、彼は体よく私を切りたい、と思っているだけなのだ。
「……どうした。何を考えてる」
私の彼の眼鏡を持つ手は、怒りで少し震えていたかもしれない。そんな私をじっと、彼はさっきから不安げな顔で見つめている。
「佐々木先生の件は、わかったな? わかったならすぐに向かってくれ。先生は約束ごとにも時間にも厳しいんだ。そのことは、君もよく知ってるだろう」
これで話は終わりだ、とばかりに彼は、椅子から体を起こすと立ち上がった。そして壁の時計を見上げる。十時半を、少し回ったくらいだ。
「先生は今日、昼過ぎまでは本郷の研究室にいるそうだから。絶対に失礼のないように」
それと、何だ……例のあの、先生の好物も忘れずに、と言いかけて彼は、額の生え際のあたりを指先で掻きながら、しきりに思い出そうとしていた。
「ええとーー」
「ただの柏餅よ」
私は彼に拭き終えた眼鏡を押し付けるように手渡すと、黙って自分の席に戻った。彼が不審の色をさらに強め、ジッ、と私を目で追っているのがわかる。
「約束は、何時なの」
外していた腕時計をはめながら聞いた。
「お昼を君と一緒にとりたいと言っていたから……そうだな、正午十分まえに本郷の研究室でいいよ」
少しだけホッとした様子で、彼はそれまでチェックしていたゲラを手に取った。
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