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私の机の上には、誠一バカボン、と書かれた彼の落書きが、笑顔でこちらを見つめていた。
その紙を手に取って丸めると、他の大量の落書きの山とまとめて、足下のゴミ箱に全て放り込んだ。
「ねえ、誠一さん」
急に下の名前で呼んだので、彼は少し虚をつかれたような、そんな顔をした。
「何だ」
「私もう、ここに帰ってこないかもしれないわ」
言って、私は彼と目を合わせた。
「……何?」
「もし……佐々木先生のとこなんか行かずに、そのままどこかに行っちゃったら、あなたいったいどう思う」
「……」
「探しに来てよ、私を」
誠一は、立ったままポカンと口を開け、しばらくの間、私と目を合わせ続けていた。
……今こうやって、この時のことをあらためて思い出してみても傑作だった。彼のあのときの顔は、本当に。
彼は私と目を合わせたまま、やがて薄笑いしながらこう言った。
「おまえに、そんなことが出来るのか」
彼は、確かにそう言った。私はカバンを肩にかけ直すと、そのまま背を向け扉を開けて外に出た。
「出来るものなら、やってみればいいさ」
私は、その誠一の言葉には何も答えずに、後ろ手でそっと扉を閉めた。
▼
階段を降りてビルの玄関ホールに出、自動ドアを開けると、目の前に八重洲の見慣れた雑踏が広がっていた。
途端に日の光が、眩しく、まるで細かな針のように顔を刺す。鋭角なビルの向こうに、五月の抜けるような青空がある。
私はそれから逃げるようにいったん日陰に隠れると、目を閉じ、心の中でワン、ツー、スリー、と数えた。そして勢いよく、ビルの三階にある編集部を見上げた。
もしかしたらーー彼が窓から顔を出し、自分を探しているかもしれない。そんな淡い期待を込めて。
でも、そんな姿かたちは、微塵もなかった。私の机のすぐそばの窓枠に、一匹のスズメが器用にとまって、軽く羽繕いをするとすぐに飛び立っていく。
……やっぱり自分は、その程度の存在だったのだ。
私は、誠一に捨てられたのだ。いま、はっきりと。
私はビル前の階段を降りると、そのまま歩いて中央通りまで出た。ドトールの前の交差点まで来ると、ちょうど信号が赤になったところだった。
歩行者がみな一様に立ち止まっている。
でも私は、一人気にすることなく、その横断歩道を渡り始めていた。
交差点を直進する何台もの車は、すでにスタートを切っている。
出鼻をくじかれた何台もの車の、無数のブレーキとクラクションの音が、自分に向かって一斉に鳴り響いた。
「……うるさいっっ!!」
その場に仁王立ちになると、私は心の限り、そう叫んでいた。
私は脇目もふらず、カバンを振り回すようにして、中央通りを北に向かって歩いた。どんどん行った。私は怒りで我を忘れていたのだ。
どこに向かっているのかはわからないが、どこかに行けばいずれどこかに辿り着くだろう。そんな気持ちで。
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