旅の行方

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 やがて右手に、高島屋の赤い軒先が見えてきた。平日にもかかわらず、普段どおり建物の外も、そして中もすごい人手だ。  私は、その場に立ち止まった。  東大の佐々木教授に会うたび、毎回持参しなければならない手土産というものがあって、それは、ここの地下の食品フロアの店にある。買うものも、いつも決まっている。  静岡に本店のある、巌邑堂という和菓子屋の柏餅なのだ。その支店が、この高島屋にあるのだ。  その柏餅を持参しないと、佐々木先生は毎回決まって機嫌を損ねる。その他約束ごとや時間など、担当編集者に対しては非常に厳しい。高名な学者などに多いタイプだ。  入念に意識してやっているつもりでも、これまでにも何度叱られたかわからない。  その点をないがしろにした編集者が先生から受けたひどい逸話を、私もいくつも聞かされて知っていた。  私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくぼんやりしていた。  そのとき背後から、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。驚いて振り返ると、いつもの売り子の制服の上に、ネイビーのカーディガンを羽織った巌邑堂の刈谷さんが、笑顔で手を振りながら、私の方に向かって駆け寄ってきていた。  ……私は、小さく舌打ちした。 「谷口さん! どうもお久しぶりです」  目を泳がせながら、私は軽く後退(あとずさ)った。一方の刈谷さんは、そのキラキラしたーーいつもの溌剌とした笑顔を周囲に振りまきながら、さらにこちらに向かって近づいてくる。  ……バツが悪い、なんてものではない。 「これから、お買い物ですか?」  そう愛想よく言った彼女は、ひどく申し訳なさそうに、 「今ちょうど、お昼から戻ったところでして……まだ三十分ほど休憩が残っているんですよ。ぜひ私がお承りしたかったんですがーー」  と言った。 「今日も、いつもの柏餅ですよね? 先生へのお土産の……」  私は、その場で軽く咳払いすると、カバンを肩にかけ直し、息を飲みながらジッ、と彼女の顔を見つめていた。 「……?」  その、まるで小鹿のような首をかしげ、愛らしい目を丸くさせていた刈谷さんは、私のその妙な様子に気づいたのか、軽く眉をひそめる。 「実は、今日は違うんです」  言うと彼女は、ちょっと意外そうな、そんな顔をした。しばらく、無言のまま向かいあう。 「あの、刈谷さん」 「はい?」 「……今少しだけ、お時間ありませんか」  彼女は、少し不安げな顔をしたあとで、 「ええ」  と答えた。    どこかのお店にでも入ろうかと、その後辺りを見回したが、彼女もそれほどゆっくりはしていられないだろうな、と思い直した。  結局、私たちは近くにあった自販機でペットボトルのお茶だけ買うと、コインパーキングの前にあった手頃なU字形の黄色の柵に、二人で並んで腰掛けた。  お昼時にも近いからか、高島屋の付近はさらにたくさんの人で賑わい始めている。繰り返し腕時計を見ながら、私は少し、心配になってきていた。  そんな私に、 「まだ、あと二十分くらいは大丈夫ですから」   と刈谷さんが気をきかせ、にこやかな笑顔を作って言った。  思えば、佐々木教授に私の肝煎りで、若い人向けの書き下ろしの社会学入門の本を書きませんか、と依頼してからだからーーこの巌邑堂の刈谷さんとも、かれこれ二年近くの付き合いになる。  彼女には折に触れ、あの誠一のことも、いくらか相談をするような、そんな仲だった。  冷たいペットボトルのお茶を飲むと、私はようやく一息ついた、そんな気分になった。そして無意識にも、彼女を上から下まで、まるで舐めるように眺めていることに気がつく。  この高島屋の地下の食品売り場のフロアに、いったい何軒くらいのお店が入っているか、正確には私は知らない。でも、その中の女性店員を全て合わせたら、きっと大変な数にのぼるのだろう。  それでも何の誇張もなくーー彼女はそのうちのトップクラスに入るくらいの美人、と言ってよかった。  髪を上品におだんごにしてまとめ、(てら)いのない、ナチュラルなメイクをしたかたちの良い、その小顔を前にしていると、いつも同性の自分ですら、少し腰が引けてきた。もし、この人が誠一の前に突如として現れたとしたら、いったいどうなるのだろうか。そんな下らない妄想を、これまで何度したかもわからなかった。
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