0人が本棚に入れています
本棚に追加
「あの。ひょっとして、また例の人と……何かあったんですか」
腰を落ち着けて以来、急にまんじりともしなくなった私の顔を、刈谷さんは少し居心地の悪そうな、そんな様子で覗き込みながら聞いてきた。彼女が手にしたペットボトルの表面に浮いた汗で、その白魚のような指が濡れている。
「いつもみたいに、私で良ければ何でも話、聞きますよ。言ってみてください」
むしろ今日は、店頭で会わなくてよかったかもしれない、とも思った。おかげで彼女を引き止めている罪悪感も、それほど感じずに済む。
私は黙ったまま何も答えずに、目の前の八重洲の風景に目を細めていた。信号が変わるたび、中央通りを忙しく、車が何台も走り過ぎていく。その手前の歩道を、人々の波が途切れることなく行き交う。
「あの」
「ええ」
「実は私……」
急に私が口を開いても、刈谷さんは微動だにしないでいた。
「これから、あることをしてやろう、と考えているんです」
言うと、とたんに彼女が、心配げに首をかしげた。
「……あること?」
「ええ」
「なんです、あることって」
私は自分のペットボトルを握りしめると、黙ってもう一口お茶を飲んだ。というか、自分でこんなことをしている自分が、信じられない。
体のどこかにある栓が、ある日スポッと抜けてーーそこから何かが、社会人として、いや人間として、非常に大事な何かが、次々に漏れ出しているようなーーそんな感覚なのだ。
「本当のことを言いますとね、普段通り、これから刈谷さんのお店でいつもの柏餅を買い、いつものように本郷に行く、という流れの仕事があるんです」
「ええ」
「でも、もうなんかーーすべてどうでもよくなっちゃって」
彼女は一瞬、息を飲むようにした。しかしその硬ばったような笑顔を、必死に保持しようとしている。
その間に少しでも、この状況を頭の中で整理しようとしているのかもしれない。
「その仕事をドタキャンしてやってね、あの人を困らせてやろうか、とかって、考えているんですよね」
刈谷さんは、あんぐりと口を開けたまま、この私を目を合わせずに眺めていた。
「どう、思います」
「えっ。やっ、どう思いますって……あの、谷口さん、それ本当ですか?」
最初のコメントを投稿しよう!