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旅の行方
サインペンでもって、今度はぐるぐると、大きな円を描いてみる。その筆先は、やがてうずまきのような模様を描きながら、中へ中へと進んでいく。
でもべつにーー描きたくてそうしている訳じゃない。
図柄だって、別になんでもいい。うずまき模様だろうと、ドラえもんだろうと。
「谷口くん」
さっきから私を呼ぶその声に、気づかないふりをしたいだけなのだった。黙って手を動かし続ける。
「……谷口くん」
人気のまったくない、ガランとしたいつもの編集部。その中に、彼の声だけがうつろに響いている。
私はダメ押しのつもりで、その声を完全に無視してやると、左腕を枕にし、机にうつ伏せになってその落書きを続けた。だんだんとうずまき模様に飽きてきたので、今度はその隣に、彼の似顔絵を描き始めた。
窓の外の八重洲の喧騒が、かすかに聞こえていた。ふと顔を上げて見ると、はすかいの席に座り、呆れた顔でこっちを見ている彼を、ブラインドに遮られた横縞模様の日の光が彩っている。
ザッと描いてみた彼の似顔絵と、目の前の実物は、顔の輪郭はだいたい合っていた。が、眉のかたちだけが、どこか違っている。あんな広げた鳥の羽みたいな形してたっけ。
普段から完璧に記憶しているつもりでいても、なかなかそうでもないものだ、と思う。
そんな感じにさっきから、彼のことをいないもののようにしてやっていても、向こうは我慢強く、私が返事するのを待っているようだった。
「谷口くん」
この日、わが文芸部の残りの同僚編集者は、二人とも出払っていた。三井さんは、現在九州に出張中。後輩の脇田は、某作家の出版パーティーに朝からお付きのかたちで出向いている。
編集部の中にいるのは、彼とこの私だけだった。
気がつくと、描き始めた彼の似顔絵が、知らぬ間にバカボンのパパに変化していた。ねじり鉢巻をしていて、目は確かこんな感じ、髪型もこんな感じだったと思うのだが、その眉毛のかたちがどうしても思い出せない。
確か、線で横につながっていた気がする。あれ、違ったっけ。
その、彼の似顔絵のとなりに、大きく誠一バカボンと書いた。
「あゆみ」
ついに私の下の名を、彼が呼ぶのが聞こえた。
「ちょっと来るんだ」
もう一度顔を上げると、軽く青ざめたような顔で私を見ていた。どうやら怒ってもいるようだ。
私は黙ってサインペンを置くと、ようやく席を立った。
「もう、いい加減にしないか」
書籍や資料の山をぬうようにして、彼の机の前まで行く。
「……仕事の中にまで、持ち込むつもりなのか?」
彼は静かにそう言った。
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