人魚のマリルー

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人魚のマリルー

9c0e72df-0410-48df-867d-e787ea09a013  人魚のマリルーは小さな入り江に住んでいました。  マリルーの暮らしときたら、ひがな一日浜辺に寝ころんでばかりいます。緑の長い髪はもつれっぱなし。大きな瞳はいつも眠たそう。たまに波うちぎわで、ぼんやり遠くをみつめたり、つまりはこれといった事はなにもせず、過ごしているのです。  けれど黙っていても、お腹は減ります。今日、マリルーは二日ぶりに海へ潜り、魚をとってきました。泳ぎまわって疲れたのでしょう。砂浜に寝っ転がったまま、魚をむしゃむしゃ食べています。すると、おこぼれにあずかろうとカモメたちがやってきて、魚の取り合いになりました。 「もう、あっちいけー!」  姿に似合わぬガラガラの声に驚いたカモメたちは、いっせいに逃げ出しました。一人きりになると、ふうとため息をついて、青い瞳に安堵の色を浮かべました。 「相変わらずだねえ、マリルーは」  息子の手を引いて夕方の散歩に出て来た、領主のジェラルドが声をかけてきました。マリルーは起き上がって、魚の尻尾を口に放り込みました。 「誰かに見られたら、人魚への夢をぶち壊してしまうね。せっかくの髪もぼさぼさだし、頬っぺたに海藻の切れ端つけたままだし」  そう言いながらもジェラルドは、にこにこ笑っています。ジェラルドのゆったりした白い上着が、夏の涼しい夕風をはらんでふくらみます。 「誰にも見られたりしないし、誰も来ない。ここはあんたの爺さんから、あたしが貰った浜だから。おいで、セドリック」  マリルーは、かすれた声でジェラルドの息子、セドリックを呼びます。人魚の眷属には、歌で船乗りをかどわかす種族もいると聞きますが、マリルーにかぎっては歌など似あいそうにありません。  マリルーは、はちきれんばかりの笑顔で駆け寄って来たセドリックを抱き上げました。 「重くなったのね、セドリック」 「夏が終われば、三才だ」  ジェラルドが答えました。 「もうすぐ抱っこして泳ぐなんて、できなくなる」 「そしたら、セドリックに泳ぎを教えておくれ。わたしや父に教えたように」 「そうね、セドリックはじょうずに泳げるようになるかな。お父さんと違って水を怖がらないようだから、大丈夫かな」  マリルーは父親譲りの巻き毛のセドリックの頭をなでました。ジェラルドが苦笑いしています。 「わたしの泳ぎの下手さは爺様に似たんだろうな」 「そうかもね。下手だったわ、あんたの爺様。だから、あたしみたいなのに助けられちゃうのよ。ちょうど今のセドリックくらいだった」  ジェラルドの祖父が幼い頃、溺れていたところを助けたご褒美に、マリルーは入り江をもらったのです。  水平線に茜雲を押しのけて、黒い雲が湧いてきました。セドリックはまだマリルーと遊びたがりましたが、暗くなる前に戻ると声をかけられ、ジェラルドとしぶしぶ手をつなぎました。 「また遊びにおいで。あたしは、いつでもひまだから」  マリルーがそう言うと、セドリックは父親に手を引かれ、何度も振り返って帰っていきました。  また一人きりになったマリルーは、砂浜へ寝そべりました。貝殻で作った胸当てと素肌のあいだを、波がなんども洗います。  今は小さなセドリックも、すぐに大きくなっていくことをマリルーは知っています。セドリックも、セドリックの父も祖父も、あっという間に大人になりました。歳をとるのがゆっくりなマリルーを、誰もが一足飛びに追い越し、年老いてしまいます。  マリルーに入り江を与えた人は、今はもういません。浜辺でまどろんでいると、同じ夢を見ます。  ……マリルーとダンスを踊れたなら、いいんだけどな……  いつもマリルーと海で遊んでいた巻き毛の少年は、いつの頃からか裸のマリルーの胸に飛び込んでは来なくなりました。  今も目のやり場に困るのか、少し離れた砂浜に座って、うつむいた顔を赤くします。マリルーは少年が恥ずかしがらずに済むように、貝殻で胸当てを作りました。  あたしにダンスなんて無理、とマリルーは分かっていました。  魔女と契約を結んだなら、声と引き換えに人と同じ足になれます。そうすれば、少年と踊れるでしょう。一緒に陸で暮らせるでしょう。   夢の中でマリルーの喉は熱くなります。こんな声、なくてもいいのかも知れない。  でも、声がなくては……。  眠っていたマリルーの鼻を、つんとつつくものがありました。目を開けると、顔なじみの海亀がいました。マリルーと目が合うと、あくびをするように開いた亀の口からポカンと泡が二個吐かれて、一つがぱちんと割れました。 『マリルーおば様、南の仲間からの知らせです。空が騒がしいようです』  マリルーは体をぱっと起こして、空を見上げました。いつの間にか、月も星も漆黒の闇に塗りつぶされていました。風の音に聞き耳を立てました。ひゅうと、高い笛のような音が、かすかに耳に届きました。波のうねりをさぐろうと、沖へと体を向けました。そのとき、二つ目の泡がはじけました。 『ロゼは魔女と契約しました』  マリルーが振り返ると、海亀は大きく口を開けて、ゆっくりと閉じました。  マリルーは一度目をぎゅっと閉じて、尾を強く振り海へ潜りました。  ロゼとは以前なんどか会いました。入り江の東側の岬に住む青年に想いを寄せていることを、マリルーにそっと打ち明けました。  足があれば、彼のもとに行けると。そのためなら、声を無くしても構わないのだと。  泡になった人魚の墓碑銘に、ロゼの名前が刻まれなければいいけれどと、マリルーは思いました。   昏い海の中は、海流とは別の、大きなうねりを感じました。嵐の兆しを感じ、沖へ確かめに行こうとしたとき、マリルーは高波に呑まれました。一瞬体が回転し、緑色の髪が波に弄ばれます。  波から解放されて海面から顔を出すと、大粒の雨が顔に当たりました。風が唸りを上げ始めます。嵐は恐ろしい速さでやって来ました。  マリルーは浜を振り返りました。断崖に囲まれた砂浜の奥には、ジェラルドたちの住む館があります。激しい雨に霞んで見えました。  マリルーは沖へと視線を移し、唇を噛みしめます。  どん、という音が遠くから響きました。稲妻が空を走ります。今、まさに浜辺に大波が押し寄せる波に体を揺さぶられ、ぐっと持ち上げられる感触にマリルーは乗りました。そして波の頂から迷わず宙へと体を投げ出すと、大きく口を開け、吸い込んだ息を一気に波へぶつけました。 「!」  叫び声とも悲鳴ともつかぬ声が山のような波にぶつかり、波は蹴散らされます。  館のある入り江は奥に行くほど波が大きくなるのです。マリルーはなんどもなんども宙へ飛び上がり、浜へ襲い来る波を消しました。大波を、荒れ狂う波を崩します。空へと跳ね上がったとき、遠くに見えるジェラルドの館が波に飲まれないようにと。  ……結婚するんだ。となりの領地の娘と。とても優しい子だよ。マリルーともきっと気が合うよ……  ある日、りっぱな青年になったかつての少年が、マリルーに告げました。その時のことをマリルーはよく覚えていません。ちゃんとお祝いの言葉を伝えられたのか、どうか。  紹介された娘は、金の髪と青い目がとても美しい娘でした。人魚を見たことがなかったのでしょう。こわごわと挨拶をすると、すぐに青年の背中に隠れてしまいました。  ……我が家の守護者だよ。子どもの頃に溺れたわたしを助けてくれたんだ。  娘はぎこちない笑みを浮かべました。人とは違う体つき、虹色にきらめく鱗さえ、異形としか見えなかったのかも知れません。  娘の視線は、マリルーの胸に刺さりました。青年はそんな様子には気づきませんでした。  そんなふうに小さかった男の子は、あっという間に大人になって、じき父親となりました。    胸も喉も、張り裂けそうです。舞い上がるごとに、水をかきわける腕も尾も、力を失いかけます。嵐にもみくちゃにされながら、それでもマリルーは叫び続けました。    婚礼の儀式の晩、マリルーは波間から、まばゆいほどの灯りがともるお館を見つめました。  きっと若い二人は大勢の人たちに祝福されて、幸せでしょう。これからも、きっと幸せなのです。  人は人を伴侶に選び、ともに足並みをそろえて時を重ねます。  人魚のマリルーは、いつでも人に取り残されるのです。マリルーは藍色の海に潜りました。両手で顔をおさえました。海の中なら、いくらでも泣けるのです。    どれほど時間が経ったでしょう。いつしか夜は明け、黒い雲の隙間から朝のひかりが差し込んできました。海はまた優しさを取り戻し、浜辺に倒れるマリルーの体を労わるようにカモメたちが舞い降りてきました。 「マリルー! 人魚姫!」  ジェラルドの声がします。ジェラルドの無事を知って、マリルーはそのまま眠りに落ちました。  人間の足が欲しいと思わない。この浜辺にさえ、いられたらいい。あなたの子どもたちを見守れるなら、それでいい。長すぎる生を無駄に使うなと仲間たちは言うけれど。 「マリルー……」  マリルーの頭をなでるジェラルドの手は、かつて愛した人の手とよく似ています。  夏の終わりの風に、浜ぎくが揺れていました。
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