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はっきり言って、伝説の男はその見た目もさることながら、音に対する厳しさも伝説級だった。
何度も何度もリテイクを重ね、細かい注文を出し続け、その場でいきなりフレーズを変えたり足したり削ったり。
え、今のとさっきの、何が違うの?というような微細な機材の調整に、弾き直し、歌い直しを繰り返し。
しかし、出来上がった音は最高だった。
その完成した音をみんなで聴いて、地獄のようなレコーディングが終わった喜びを噛み締める。
「じゃあ、俺は帰る」
セージはそう言って、スッと立ち上がった。
「え?セージ、打ち上げ行かないの?」
アオイの誘い文句にも、そっけない対応だ。
「お前が変わりに行けばいーだろ。早く帰って陽太を補給してぇんだよ」
「いや、別にセージの変わりじゃなくても、俺、行くつもりだし」
陽太、という名前を聞いた大樹がバッと顔を上げた。
セージと目が合う。
何か問いたげな顔をしているギタリストに、セージは軽く肩を竦めて言った。
「陽太は相変わらず可愛くてたまんねぇし、俺に愛されて元気いっぱいだから安心しろ」
そして、羽織っていたジャケットの胸ポケットから何かを取り出した。
「忘れてた、お前に渡してくれって頼まれてたんだった」
手渡されたのは、小さな布製の袋。
御守りだ。
「学業成就」と縫い取られている。
裏返すと「湯島天満宮」とある。
それが、東京で合格祈願をする有名な神社なのは、大樹も知っている。
大学受験をする彼のために、陽太がわざわざお参りに行って買ってきてくれたのだろうか。
大樹は、その小さな袋を握り締めた。
心底嬉しかった。
自分に巻き込まれたのかもしれないみんなは大学を諦めたのに、張本人の自分だけが往生際悪く学歴にしがみつこうとしている。
そのことに対する罪悪感が、頑張れと背中を押してくれるようなそのひとからの贈り物で、少しは和らいだ気がした。
「あんたに礼は言いたくないけど、ありがとう」
本宮サンにもお礼を言ってたと伝えて欲しい。
本当は直接会って、そのひとの陽だまりみたいな笑顔を見ながらお礼を言いたい。
でも、まだ何も為し遂げてないから。
「ま、気が向いたらな」
その男は幾分めんどうそうにそう言って、大樹に背中を向けた。
ああ、それから、と彼は背中越しに言葉を繋げる。
「言っとくけど、お前が陽太に横恋慕してんのと、お前らのバンドのスカウトとは何の関連もねえからな?」
俺はお前ごときに陽太を奪わせる予定は一ミリもないからそんなくだらねえ駆け引きはしないし、自分の目と耳に恥じるような仕事は絶対にしない。
だから、変な勘繰りはやめとけよ?
まだ全然、そいつに敵わない。
そう思わせるのに十分な、全てを見透かされたような言葉。
それも、恋敵に塩を送るような余裕を見せて。
今はまだ、余裕ぶらせておいてやる。
そのうち、そんなこと言ってらんなくしてみせるからな?
大樹は、心の内でそう改めて決意する。
まだ、始まってもいない。
全てはこれから、だ。
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