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プロローグ
新緑に溢れ、小鳥たちのさえずりが響く山道に、幼稚園児たちの元気な声が飛び交っている。
そんな中、皆から少し遅れ、少女の手に引かれて歩いていた少年がつぶやいた。
「いいなぁ、遥ヒメのおにいちゃんは……」
「え？ どうして？」
「だって、やさしいし、かわいくて、おいしそうなおべんとうも作ってくれるし……ボクのおにいちゃんとはおおちがいだよ」
しかし、少女――遥は不満そうに口を尖らせ、首を横に振る。
「えー、そんなことないよー。おにいちゃん、おべんとうにウサギさんリンゴ、いれてくれなかったもん！」
「でも、タコさんウインナー、はいってたじゃん！」
少年はお昼に覗き見た彼女のお弁当の中身を思い出して、羨ましそうに反論した。
オニギリだけだった少年にとっては、遥のお弁当がまるでオモチャ箱のように輝いて見えたのだ。
「だって、タコさんはかわいくないんだもん。ウサギさんのほうがよかっ……きゃっ！」
そんな遥の意見は言い終わる直前に途切れ、小さな悲鳴に変わった。
不意に吹いてきた風に、かぶっていたピンク色の帽子が攫われてしまったのだ。
遥はとっさに少年と繋いでいた手を離し、ジャンプしながら空に向かって両腕を突き上げる。
しかし、いじわるな風によって運ばれた帽子は、遥との追いかけっこを楽しむかように舞い上がり、山道脇の茂みにある木の枝に引っかかってしまった。
「むー……」
遥は悔しそうな表情を浮かべると、すぐさま帽子を取り戻そうと茂みの中へ飛び込む体勢になる。
が、一片の迷いもなく突っ込んでいこうとしたところを、少年に引き止められた。
「ね、ねぇ、自分で取りにいくの？ あぶないよ？」
山道のすぐ脇は、下を流れる川に向かって緩やかな斜面になっている。
しかも、昨夜降った雨のせいで足下は少しぬかるんでいる。
もしここで足を滑らせでもしたら、と少年は青ざめたのだが。
「だいじょうぶだよー、これくらい。よわむし・なきむし・いもむし隼也くんは、ここで待ってて！」
あだ名通り、今にも泣き出しそうな少年に向かって微笑み、遥は腕を払いのけた。
「で、でも……ボク、やっぱり先生よんでくるよ！」
少年は、茂みに入って行く遥と、自分たちが見舞われたトラブルに気付かず遠ざかっていこうとしている先生たちの背を交互に見て一瞬迷ってから、後者の方へと駆け出していった。
一方、遥は帽子の引っかかっている木の方向を確認すると、足下に気をつけながら茂みの中へと足を踏み入れる。
しかし、背の低い遥は、茂みに入ってすぐに目的の木を見失ってしまった。
すぐ近くの木に引っかかったように見えたのは錯覚だったのか、それとも、帽子がまたどこかへ飛ばされてしまったのか――。
「……ううん、きっと、あるはず」
遥は今日の登山遠足のために母親が買ってくれた赤いリュックの肩紐をぎゅっと握り締め、ぬかるんだ斜面を下へ下へと進み始める。
（だってあれは……おとうさんとおそろいなんだもん）
失くしたくないのは帽子そのものではなく、帽子のツバに縫い付けられて四つ葉のクローバーを模ったワッペンのほう。
大好きな父の、仕事着に付いている『腕章』そっくりのワッペンは、父のものを欲しがって駄々をこねた遥を見かねて、母親が代わりにと作ってくれた。
そんなワッペンが付いている、世界に一つだけの大切な帽子を、遥は何としても見つけたかった。
しかし、なかなか見つからず、焦りを感じ始めたその時――。
「……！？ きゃあっ！」
足下の柔らかい土が突然崩れ、遥の小さな身体は山の斜面に投げ出された。
小さな身体を襲う強い衝撃。
どこが上なのか、どこが下なのか――ぐるぐると視界が回転。
頬や手足に走る小さな痛みに遥は目を瞑り、歯を食いしばりながら、なす術もなく転がっていく。
やがて、ドスンとお腹に何かが当たったかと思うと、遥はようやく止まることができた。
「……っ」
目を閉じたままそこで吸い込んだ空気は、土の匂いがした。
次いで、服を通して地面の冷たさと水気が伝わってくる。
凜と張りつめた山の空気が、身体の表面から内側へ、じわじわと侵食し始め頃、遥はおそるおそる瞼を持ち上げた。
目の前には、幹の途中から腐って折れてしまったらしい太い樹。
どうやら、これに引っ掛かったらしい。
薄暗い周囲には、鬱蒼と茂る木々や雑草。
すぐ近くから、激しく水が流れている音……昨夜の雨で増水した川の音が聞こえてきた。
落ち葉の積もった柔らかい地面に手をつき、遥はゆっくりと身体を起こす。そして手の甲で頬を拭うと、ヌルッとした何かが触れて気持ち悪くなった。
綺麗に結んであったおさげ髪はボロボロの落ち葉まみれ。
新調したばかりのクリーム色のパーカーやお気に入りのジーンズ、赤いリュックはどれも、泥まみれだ。
せめてもの救いは、捜し求めていた帽子が、すぐ近くに落ちていたことだろうか。
遥は帽子を拾おうと、立ち上がろうとしたが、右足首に強い痛みを感じて、すぐにその場に崩れてしまった。
ようやく、這うようにして拾うと、取り戻した帽子を抱き締めた。
「おかあさん、おとうさん、おにいちゃん……隼也くん……」
みんな、どこにいるの？
このままずっと、誰も見つけてくれなかったら――どうなるの？
薄闇の中から押し寄せてきた不安の波に、遥の涙腺が決壊した。
それからしばらく声が枯れるまで、遥は独り、泣きつづけた。
やがて、疲れきった遥の瞼が休息を求めてウトウトと落ち始めた時……。
『――るかっ！』
少女は誰かに名前を呼ばれたような気がして、パッと顔を上げた。
だが、辺りに人の気配はない。もしかしたら夢を見ていただけなのかもしれない。
それでも。
微かな希望の光を信じて、残っていた僅かな力を振り絞り、掠れた声で叫んだ。
「だれか……たすけてぇっ！」
闇に呑まれて消えたかに思えたその小さな声は、彼女を必死に捜していた白い犬――式獣の耳にだけは、確かに届いていたのだった。
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