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第１話 彩瀬署へようこそ？
――辞令――――――――――――――――――――――――――
渡月 遥殿
20ＸＸ年4月1日付けをもって【式獣使い】とし、
彩瀬署式獣課勤務を命じる。 以上
――――――――――――――――――――――――――――――
＊１＊
『遥！ そろそろ起きないと遅刻するぞ！』
レースのカーテンを透過した朝の光が、布団を被り、子犬のように丸まって幸せそうに眠っている少女と、部屋全体を明るく照らし出している。
昨夜寝た時はきちんとベッドの上にあったはずの抱き枕は、主に蹴られて落ちたのか、フローリングの床に転がっていた。
その枕を踏み台にしてベッドに前足を掛け、遥に顔を寄せたのは、一匹の黒柴犬。
「んむ～、あと5分……」
今にも消え入りそうな声で返事をして寝返りを打った遥は、次の瞬間、飛び起きた。
「んんっ!? ちょ、変なトコ舐めないでよ、スッピー！」
首元をパジャマの袖口で拭う遥に対して、ベッドから一歩離れてお座りしたスッピーこと、スピカは小さく鼻で笑った。
パッと見は、ただの黒柴犬にしか見えないスピカだが、普通の犬とは大きく異なる点がある。
ひとつは、どんなものをも破壊できてしまう不可視の攻撃力を持っている点。
この能力は、式獣が元々、遥か昔の陰陽師によって召喚された神獣だという説から、主を守るために備えているものだと考えられている。
が、現在その力は特殊なサークレット――スピカの場合は赤い首輪によって制御されていた。
そしてもうひとつは、額に四つ葉のクローバーのような形をした、緑色の痣がある点だ。
同様の痣は、遥の右手の甲にも刻まれている。
これは『契約印』と呼ばれており、このふたりが『式獣』と『式獣使い』という特別な契約関係――絆侶として結ばれていることを示している。
と同時に、絆侶間の意思疎通、感覚共有をもたらす装置のような役割をしていると考えられていた。
『配属初日から遅刻なんて、オイラは絶対、イヤだからな！』
「だからって舐めることないじゃ……って、今何時っ!?」
『7時半だけど……』
壁に掛かっている時計を見やり、しれっとした様子で答えたスピカは、続く遥の悲鳴にため息をついた。
「スッピーのバカぁ！ なんでもっと早く起こしてくれなかったのよー！」
7時を過ぎた辺りから、スピカが何度も起こそうとしていたことを、彼女は知らない。
遮光カーテンを開けて明るくしてみたり、遥の背中に必殺☆キックを繰り出してみたり、枕元に置いてあった役立たずの目覚まし時計を床に落として音を出してみたり……可能な限りの努力はしていたのだ。
つまり、首元を舐めたのは、本当に最終手段だったのだ。
スピカは喉元まで出かかった愚痴をすべて飲み込み、開けられた窓から流れ込んできた春風に、艶やかな黒い毛並みをそよがせ、静かに目を細めた。
その間に、遥はドタバタと慌しく身支度を整えていく。
行儀悪く、赤い作務衣パジャマをベッドの上に脱ぎ捨てると、真新しい白いワイシャツに腕を通し、ストッキングとグレーのパンツをはく。
それから壁掛けの丸鏡の前に立ち、セミロングの黒髪を櫛で梳き、手早く後ろで一つに結ぶ。
『寝グセ、ついてるぞ』
「あぁっ、もぅ、そんなの気にしてたら遅刻するわよ！」
『…………』
スピカに言い返しながら、ハンガーに掛けておいたグレーのスーツのジャケットを羽織ると、机の上に置いてあった黒いリュックを手に、遥は部屋を飛び出した。
スピカも置いていかれまいと、慌ててその後を追う。
部屋を出てすぐ右にある階段を駆け下り、一階のリビングに入ろうとした瞬間――。
「きゃうっ!?」
ちょうどリビングから出てきた長身の青年に勢いよく衝突し、遥は尻餅をついた。
「っと、おはよう、遥。そんなに慌てて、もし顔にケガでもしたら、兄ちゃん、泣くからな？」
遥の腕を軽々と引っ張り上げ、爽やかな笑みを零したのは渡月家の長男で遥の兄、涼だ。
かき分けた長めの黒い前髪が細長く綺麗な指の間からサラサラと流れる。
父親に似て、鼻筋の通った端整な顔立ちは、妹の遥でも時々ドキッとしてしまうほど。
そんな彼が、淡い水色のカラーシャツに濃紺色のスーツ、白いストライプの入った青ネクタイを締めたクールな姿は、今の職――警察官にしておくのはもったいない、と周囲を残念がらせていた。
とはいえ、涼は若干25歳にして警視庁・式獣総本部勤務という超エリートだった。
「じゃあ、兄ちゃんは先に出るぞ。テーブルにフレンチトースト作って置いといたから、ちゃんと食っていけよ？ それから……スピカ、遥のこと頼んだぞ」
『おぅ、遥のことはオイラに任せとけ！』
遥の後ろで行儀よくお座りしていたスピカは、頭をわしゃわしゃと撫でられて嬉しそうにシッポを振り、得意げに胸を張って応えた。
その声は絆侶である遥にしか聞こえていないはずだが、自信満々の様子に、涼は了承の意味を受け取ったのか安心した笑顔で頷く。
「もぅ、なんでお兄ちゃんは、スッピーの方に私のことを頼むかなぁ」
『そりゃ、遥よりオイラの方がしっかりしてるからだろ』
「むぅ……」
さっきまで遅刻だと慌てていた遥だったが、涼が出勤するのを見送るために玄関までついて行く。
靴を履き終えて家を出ようとした涼は、振り返った瞬間、何かに気づいたようにドアを開ける手を止めた。
「あ、そうだ、遥……」
妹の顔を覗き込むように近づいた涼は、遥の頭に大きな手をポンと乗せると、スピカにした時よりもずっと優しく、そっと撫でた。
「な、なに？」
「遥、リラックス、だよ。彩瀬署のみんなに、よろしく伝えといてな」
「……うん。いってらっしゃい」
涼のさりげない言動に頬を緩めた遥は、涼の背中を見送りながら、自分がいつの間にか緊張していたことに気付いた。
遥にとって今日は、小さい頃から夢だった『式獣使い』として、第一歩を踏み出す日なのだ。緊張するのは無理もない。
だが、緊張と同時に、まだ見ぬ式獣使いの仲間たちへの期待も大きかった。
――彩瀬署か、あそこは色んな意味で面白いトコだよ。
先週末、式那島――数十年前に式獣の存在が確認された、東京都に属する小島――にある式獣使いの養成所、通称・式獣学校での半年間の研修を終えて帰宅した遥に、配属先を聞いた涼は言った。
何がどう面白いのかは「行けばわかるよ」としか言わず、ただ微笑む兄の様子に、遥はまだ見ぬ彩瀬署への期待を日々募らせていった。
そんな兄とのやりとりを思い出しながら、のんびりと玄関の扉を閉めた遥に、スピカの焦った怒鳴り声が飛ぶ。
『おい、ボサッとしてる暇はないぞ！』
「あ、そうだった！」
我に返った遥が再びリビングへ駆けていくと、テーブルの上にはフレンチトーストと、レタスとミニトマトのサラダ、冷たい牛乳が用意されていた。
ありがたいことに、スピカの分の牛乳も、ちゃんと専用の平皿に注がれて置いてある。
今この家で暮らしているのは、涼と遥、そして式獣のスピカだけ。
3年前、式獣使いだった父親と、その絆侶式獣が任務中に亡くなってからというもの、式獣研究所の所長を務めている母親は、式那島で一年のほとんどを過ごすようになった。
夫を失った悲しみを紛らわすかのように、日々研究に没頭しているらしい。
だから、主婦のいない渡月家の朝食は、いつも各自で用意するのが基本なのだったが、時々こうして涼が作ってくれることもあった。
ちなみに、夕飯は当番制で、毎週日曜日に翌週の割り振りを話し合って決めている。
（お兄ちゃん、ありがと！）
遥は大好物のひとつであるフレンチトーストを頬張りながら兄に感謝すると、朝食を一気に口へ放り込んだ。
非常にもったいないことだが、冷たい牛乳で流し込み、超特急でハミガキを済ませる。食器の片付けは――帰ってからでいいことにする。
身支度を整えた遥は、洗面所から玄関へ向かう途中で思い出したかのようにリビングへ寄り、棚に飾られている写真立てに向かってパンっと手を合わせた。
「行ってきます、父さん」
写っているのは、式那島の浜辺で、絆侶の白い犬を抱き上げ笑っている、優しげな中年の男性――遥の父親、渡月肇だ。
（私、絶対、父さんみたいに立派な式獣使いになってみせるから！）
写真の中の父親に宣言した遥は、バタバタと玄関へ駆けていく。
遥に続いて、写真の前で一旦停止したスピカは、会ったことがないはずの写真の人物と犬を、どこか懐かしげに見つめていた。
『…………』
「スッピー、何してんの～？ 置いてっちゃうよ！」
『お、おう、今行く！』
外から聞こえた遥の声に我に返ったスピカは、写真に向かって軽く頭を下げると、玄関へ向かって駆けていった。
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