第1話 彩瀬署へようこそ?

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 *2*  渡月家の建つ丘の上の閑静な住宅街から、駅前の大通りへと続く緩やかな坂道を自転車で下ると商店街が見えてくる。  この商店街を通り抜けるのが署への近道だが、車両の走行が禁止されている為、一度自転車から降り、引いて歩かなければならないのが難点だった。  商店街では、割烹着(かっぽうぎ)姿の老婆が腰を曲げて竹ボウキで道を掃いている横で、ガラガラと大きな音を立てて店のシャッターが開いていく。  朝から賑わいを見せている石窯(いしがま)焼きのパン屋からは、香ばしい匂いが漂っていた。  彩瀬(あやせ)駅に向かって足早に歩みを進めるサラリーマンやOL、そして学生たち。  そんな、ありきたりな朝の風景を眺めつつ自転車を引いていた遥は、ふと周囲から注がれている視線に気がついた。  一瞬、自分の顔に何かついているのかと思ったが、違うらしい。  視線の先にあったのは……自転車の前カゴに大人しく座っているスピカの方だ。 『はぁ……春の匂いっていいよなー……』   すれ違った女子高生たちの「きゃ~、あのワンコ可愛い~」などという黄色い声を聞きながら、スピカはクルンと丸まった黒い尻尾(シッポ)を嬉しそうにパタパタと揺らしている。 「やだぁ、スッピーってばオジサンくさーい。へんたーい!」  遥は、同じ年頃の女子高生たちが楽しそうにはしゃいでいるのを尻目に、スピカのことを軽くディスる。 『おい、変な誤解すんなよ。風の中に緑の匂いとか、あったかい春の空気が混ざっててさ、体がムズムズしてくるんだよ。あ、春だなーってさぁ。あぁ、まだお子ちゃまの遥には、わっかんねーかなー』 「あっ、また私のこと子供扱いした! スッピーなんて、まだ3年しか生きてないくせに」  式獣は普通の動物より歳を取るのが遅いらしく、普通の犬で3歳といえば人間の30歳くらいなのだが、スピカはまだその半分ほど、遥と同じ16歳くらいと考えられている。   そんなスピカに、去年、式那島で出会った当初からたびたび子供扱いされていることに、遥は納得がいかなかった。  スピカに鼻で笑われ、遥はリスのように頬を膨らませた。 『そういうとこが、子供なんだっつーの』 「なによーっ、スッピーなんて、ただの犬もどきの分際で!」 『いっ、犬もどきって! オイラをそこらの犬っころと一緒にすんなよ! オイラたち式獣は普通の動物よりずーっと頭は良いし、神様に匹敵するくらい凄いんだからなっ!』 「えー。じゃあ、式獣が実は神獣(しんじゅう)かもしれないって話、ホントなの?」 『かも、じゃなくてそうなんだよ。でもまぁ、今のオイラたちには、普通の動物の血も混ざってるから、昔ほど力も強くないがな……』  ふぅん、と気のない返事をした遥に、スピカもつまらなさそうに首を傾げる。 『なんだよ、興味なさそうだな』 「だって、スッピーはスッピーだもん。犬だろうと、神獣だろうと、あんまり関係ないし」 『……へぇ。じゃあ……もしオイラがスピカじゃなかったら?』  遥の言葉にスピカは振り返り、笑いながら問いかける。が、どこか真剣味を帯びたその瞳に、遥は思わず自転車を止め、考え始めてしまった。 「…………」 『……いや、別にそこで考え込まれても困るんだけど』 「うん……いや、スッピーがスッピーじゃなかったら、なんなんだろうって……。まさか、地球外生命体だったりして!? どうしよう、私、宇宙に連れて行かれちゃうの!?」 「……変な質問したオイラがバカだったよ。オイラはただの式獣だから、安心しろ」 「なぁんだ、そうよね! んもぅ、変なこと言い出さないでよね~」  などと、普通のペットと飼い主ではありえない会話を交わしながら商店街を抜け、遥が再び自転車に乗ろうとペダルに足をかけたその時――。  ドォンッ……! 「なに、今の音っ!?」 『向こうからだ。この臭い……爆発か!』  人間よりも犬よりも優れた嗅覚を活かし、スピカは瞬時に現場を感知する。  その視線は、商店街とは一本ずれた、雑居ビルが建ち並ぶ通りに向けられた。 『おい、遥、どうする? 彩瀬署とは逆方向だし、寄れば確実に遅刻するぞ。それに……』 「行くに決まってるでしょ! 私はもう『式獣使い』なんだから!」  スピカの言葉を何の迷いもなくぴしゃりと遮った遥は、まっすぐ前を見据えると、爆発音のした方へと自転車を走らせた。  ――約1分後。  現場に到着した遥が目にしたのは、爆発によって2階部分に大穴を空けた、崩れかけのビル、周囲に散らばっているビルの外壁やコンクリート片の山だった。 「きゃぁーっ! 誰か! 助けて!」  粉塵が視界を覆う中、それまで何が起きたのか理解していなかった人々が、一人の女性の悲鳴を引き金に、パニックに陥った。  ビルの中から自力で逃げ出してきた人たちの中には、額や腕などから血を流している者もいる。 「……えっと、私は、どうすれば……」  訓練ではない初めての現場に、遥の鼓動は早鐘のように打ち響き、うっすらと冷たい汗が背中を伝った。  戸惑いを隠せない遥をよそに、自転車のカゴからヒラリと飛び降りたスピカは、冷静に周囲を見回し、状況を把握していく。 『落ち着け、遥。どうやら警察と救急に連絡した奴はいるみたいだから、オイラたちは現場の状況を詳しく調べるぞ。まずは、ビル内に取り残されている人がいないか確認だ!』 「わ、わかった……」  自転車のハンドルを強く握りしめて立ちつくしていた遥は、ようやく冷静さを取り戻し、スピカに頷き返す。  道の端に自転車を停めると、堅苦しいジャケットを脱ぎ、リュックと一緒に前カゴに放り込んだ。  そして、目の前のビルを見上げる。  状況確認――現場は4階建ての雑居ビル。2階外壁には、何らかの爆発により開いた大きな穴がひとつ。それに伴い、1、3、4階部分の崩落の危険性あり。 「スッピー、ガス(しゅう)は?」 『いや、これはガス爆発じゃない。何か別の爆発物が原因だな』 「ココってただの雑居ビルよね? なんでこんな所に、爆発物が?」 『それは調べてみないとわからないが……。それより、中で動けなくなっている人がいないか確認! ビルの壁がさらに崩れでもしたらヤバイぞ』  「うん!」  遥はビルの中から脱出してきたらしい若い男を見つけると、すぐに駆け寄り声をかけた。 「あのっ、まだ中に残っている人がいるか、わかりますか?」  突然話しかけられた男は、ビクリと肩を震わせ振り返った。 「いや……お、オレ、逃げるのに必死、だったから……」  怯えた様子で答えた男は緊張の糸が切れたのか、その場にガクッと膝をつき、ヘタり込んでしまった。 「わわ、大丈夫ですか!? えっと……どうしよう。スッピー、この場所から何か分かること、ある?」 『……ああ。やっぱり何人か、人の気配がビル内に残ってるな。詳しい状況はもう少し近づいてみないと厳しいけど……』  普通の犬の何倍も聴覚と嗅覚に優れているスピカだが、人の多いところでは余計な音と匂いが多すぎて目標を捉えることは難しい。  ここはもう少しビルに近づいて見るより他なさそうだ。 『なぁ、ビル内の様子を見に行ってきてもいいか?』  スピカは遥を振り仰ぎ、許可を求める。というのも、式獣は基本的に式獣使いの指示や許可がない限り勝手に動いてはならない決まりがあるためだ。 「うん。でも……私も一緒に行く」 『いや、遥はココに残れ。何の装備もないまま行くのは危険過ぎる。とりあえずオイラが一度見てくるから……』 「それはダメ。ビルが崩れる前に何とかしなきゃ。時間がないんだから、私も手伝うわ」  と、遥が野次馬をかき分け、現場に近づこうとした瞬間、ピピーッと警笛が鳴り響き、駆けつけた警官に引き止められた。 「そこのキミ、危ないから離れなさい! ほら、ペットも近づけちゃダメだよ!」 「私は大丈夫です! 式獣使いですから!」  思わず荒げた遥の声に、周囲の視線が一斉に集まる。  驚きと好奇心が入り混じった視線を代表するかのように、遥たちの目の前に立ち塞がった警官が困ったように苦笑した。 「式獣使いってキミねぇ、どうみても中学生くらいだろう? 学校はどうしたんだ?」 『あぁん? なんだよ、ただの巡査が偉そうに! なぁ、コイツ、蹴り飛ばしていいか?』 「わーっ、ダメダメ、抑えてスッピー」  ただのペット扱いされた怒りか、絆侶(パートナー)である遥がバカにされた怒りか、スピカが叫ぶ。  その声が一般人には、ただの犬の鳴き声としてしか聞こえていないと分かりつつ、遥は動揺した。 『それより、遥。アレ《・・》を見せれば通してもらえるんじゃないか?』 「アレ? あ、そっか……こういう時に使うんだっけ?」  ポケットから焦げ茶色の本革手帳を取り出し、慣れない手つきで開き、掲げてみせる。  パタンと縦長に開かれた手帳の上面には、顔写真と名前などが書かれたカード型身分証、下面には銀色に輝く四つ葉のクローバー型の徽章(きしょう)。  これこそ、式獣使いであることの何よりの証だった。 「彩瀬署の式獣使い、渡月遥です。救助活動のため、そこを通してください」 「これは……失礼しました!」  警官は、信じられない、といった風に目を見開いた。しかし、次の瞬間には遥に敬礼をしながら、慌ててその場を退く。  遥自身も予想以上の手帳の効力に驚きつつ、走り出したスピカに気付き、後を追った。 「ありがとうございます! ちょっと待ってよスッピー」  粉塵舞う中、軽い足取りで進んでいくスピカを、遥は取り出したハンカチで口元を押さえながら追いかけていく。  一階は何かの事務所のようで、床には落ちてきた天井やコンクリート片と共に、大量のコピー用紙やハサミなどの事務用品が散乱していた。  履き慣れていないパンプスだからと、慎重に歩いていた遥は、あっという間にスピカの姿を見失ってしまった。 「誰か、誰かいますかっ!? 救助に来ました! いたら返事をしてください!」  数回呼びかけてみても、返事はなかった。  もう少し奥へ進んでみようと、足元に転がっていたコンクリート片を越えた瞬間、遥の右手の甲にある契約印(クローバー)に鋭い痛みが走った。 「――っ!?」  じんわりと血が滲み出した右手の甲を左手で押さえながら、遥はハッとした。  契約印は絆侶(パートナー)との意思疎通だけでなく、感覚の一部――痛覚などを共有してしまう。 「スッピー、何があったの!? 大丈夫!?」  大声で叫んだ遥の耳に、すぐにどこからか、スピカの声だけが聞こえてきた、 『(わり)ぃ、ガラスの破片を踏んじまった。でも、要救助者を一人発見したぜ。一階の奥、そのまま真っ直ぐ進んで突き当たりを右に進んだ辺りだ』 「わかった。今行くわ!」  照明が落ち、薄暗くなったビルの中を、スピカの言う通りに進んでいくと、倒れた棚の下敷きになっている男性を発見した。  その横でスピカは救出活動に備えて、周りに散らかっている障害物を一つずつ退かしている。  男性に駆け寄った遥はすぐに、力なく投げ出されていた左腕を取り、脈拍を確認する。同時に、意識の確認をするために耳元で呼びかけてみる……が、反応なし。 「息はあるし、特に大きな外傷は見当たらないけど……ケホッ」  時折パラパラと降ってくる粉塵に咳き込みながら周囲を見渡した遥は、天井が落ちてきやしないかと、嫌な想像をして肩を竦めた。  早くここから出ないと、この男性も自分もコンクリートに押し潰されてしまう。  そうならない為にはまず、男性の身体を棚の下から引っ張り出すか、棚を除けなければ。 『遥ひとりじゃ無理だな。やっぱり一度外に出て、応援を呼んだ方が良いな』  だが、もし応援を呼んでくる間にココが崩れたら……と、最悪の事態が脳裏を過ぎる。  ――ダメだ。こういう時は、一瞬の判断の遅れが命取りになる。 「わかった、応援を呼びに行くわ!」  遥が一人での救助を潔く諦め、外へ出ようと踵を返した、その時。 『待て、遥っ! 危ないっ!』   遥が後ろからスピカにパンツの裾を引っ張られ、尻餅をついた次の瞬間、ビルの出入口の方でズズン……と何かが落ちる音が響いた。  直後、再び舞い上がった粉塵で視界を塞がれた。  視界だけじゃない。崩れてきた天井が外へ繋がる、唯一の経路を遮断してしまっていた。  スピカが引き止めていなかったら、遥も落ちてきたコンクリートの下敷きになっていたかもしれない。 『大丈夫かっ!?』  粉塵を吸い込んでしまい、ケホケホと咳き込んだ遥は涙目になりながら頷く。 「けほっ……ん、なんとか。でも、どうしよう。私たちまで閉じ込められちゃったよ」 『くそっ! だから、遥は外で待ってろって言ったのに……』  悪態をつくスピカに、しかし諦めた様子は微塵もない。それどころか、先ほどよりも真剣な様子で周囲を探り始めた。 「……スッピー?」  どうしたのかと尋ねようとした遥だったが、目を閉じ集中しているスピカの様子に口をつぐむ。  しばしの沈黙の後、スピカの黒い耳がピンと立ち――掴んだ情報を求めて、建物の奥へと駆け出した。  遥も足元に気をつけながら、スピカの後を追っていく。 「スッピー、そっちに何かあったの?」 『……あぁ、とんでもねぇ爆発物(モノ)がな』 「ちょっ、それって……もしかして時限爆弾!?」  頷くスピカの視線の先には小さな黒い箱。  その端に取り付けられたデジタル時計は、時刻ではない数字を映していた。しかも、表示されている赤い字が、何かへの――爆発までのカウントを続けている。  120・119・118…… 「え、やだ、そんな!」 『建物の外にいる人間も、早く退避させないとヤバイことになるぞ!』 「そんなこと言っても、入り口は塞がれちゃってるんだよ? どうやって……」  先ほどの崩落で人が通れる隙間は埋まってしまった。 「……そっか。スッピーだけなら、あの隙間から出られるかも!」 『却下だ。それだけは、絶対!』 「なんでよ?」  大事な絆侶を置いて自分だけ逃げるような真似ができるわけないだろ、とスピカは心の中で答える。 『なんでも、だ。それより、その辺にハサミとか何か……切れそうなもの落ちてなかったか? コイツを解体するぞ』 「ハサミなら向こうに落ちてるの、さっき見たような……って、解体? 誰が?」 『お前以外に誰がいる。爆発物処理の基礎は習っただろ。オイラも一応、覚えてるからな、まぁなんとかなるだろ』 「え、いや、ちょっと待ってよ! 私の実習の評価、忘れたの?」  D判定――合格ギリギリの最低評価だった。  それも、認定単位を貰えるか否かという、危うい遥を見かねた同期生が居残りで教えてくれたり、スピカに助けてもらったりしたのにもかかわらず、だ。 『んなことイチイチ覚えてるかよ! 喚く前に動け! 大体……お前は父親みたいな立派な式獣使いになりたいんだろ? そんなに簡単に諦めんなよ!』 「……わかったわ。やってみる!」 『大丈夫。オイラの言うとおりにやれば……あと、90秒以内にな』  残された時間の少なさに、遥は押し黙ると、ハサミを拾いに走り、すぐさま戻ってきた。  残り、59秒。 『まず、箱とデジタル時計の間に見えている、その青い配線を切れ』  パチンと音がして線が切れた瞬間、遥は知らず止めていた息を小さく吐く。ハサミを持つ手はカタカタと小さく震えていた。  残り、38秒。 『次に、その横に見えてる黒い配線二本とも……それから、最後が、赤か緑なんだが……』  スピカを信頼して次々に配線を切っていく遥の手が止まる。爆発物を見つめるスピカの瞳に、僅かな迷いが映っているのに気づいたからだ。 「ねぇ、どっち!? 早く! あと、10秒っ!」 『……緑だ!』 「了解!」 『多分、だがな』  パチン!   と小気味良い音が響いた瞬間――…… 「えぇっ!? もう切っちゃっ……やだ、カウントが止まらない!」  8、7、6……とカウントダウンを続ける時限爆弾から慌てて離れ、爆風から身を守る為、スピカを抱きかかえて遥は小さく丸まる。  しかし、そのままの姿勢で五秒数え、10秒数えても、爆発は起きなかった。 『当たり《ビンゴ》! おい遥、見ろよ、カウントが止まってるぜ!』  遥の腕の中からすり抜けたスピカの声に、恐る恐る振り返ってみると、カウントは残り1秒を示した状態で停止していた。  強張っていた全身から力が抜け、安堵感から深いため息が漏れる。 「はぁ……もぅ、何が『当たり《ビンゴ》!』よ。ホントに死ぬかと思ったんだからね!」 『遥、安心するのはまだ早いぞ。どうにかしてこの建物から早く出ないと』 「ええ、そうね。やっぱり、スッピーは先に外に出て……」 『おっ、どうやら、その必要はなさそうだな』  「え?」  スピカがつぶやくのと同時に、ビルの外からトラメガ――拡声器で叫んでいる若い男の声が聞こえてきた。 「彩瀬署のものです! 誰かいますか!? いたら返事をして下さい!」 「は、はいっ! ココに、います!」  遥の答えに、外で歓声が上がったのがビルの中にも聞こえてきた。  どうやら、救助隊が到着したらしい。 「中の状況はわかりますか!?」 「内側は色々な物が散乱してますけど、人が立って動ける空間は残ってます。ただ……棚の下敷きになって動けない、意識不明の男性が一人います。あとは私と、式獣が一匹です」  「……了解しました! 今からコンクリートブロックの除去作業を行いますので、できるだけ奥に下がっていて下さい!」  遥が「はい!」と答え奥の方へと下がると同時に、コンクリートをドリルで砕き、取り除き始めた音が聞こえてきた。  数分後――、薄暗く、粉塵が充満していた建物の内部に一筋の光が射し込んだ。  眩しい光の中から現れたのは、白を基調とした救助活動服に身を包んだ青年と、真っ白で大きな犬……額にスピカと同じく契約印(クローバー)を持ち、青い首輪(サークレット)を付けている式獣だった。  救助活動服の左腕に付いている白い腕章には、緑糸で四つ葉のクローバーのマークと、【A・H《アニマル・ハンドラー》・RESCUE《レスキュー》】の文字が刺繍されている。  少女のようにかわいい顔立ちをした青年の、柔らかな栗色の髪が風に揺れた瞬間、四対の視線が絡み合った。と同時に、なぜかスピカと青年が同時に息を呑んだ。 『……ル?』 「シェラ……?」 「何? どうかしたの、スッピー?」 『……いや。なんでも、ない』  足元で、何度も首を横に振るスピカはどう見ても「何でもない」ようには見えない。  しかし、青年に話しかけられた遥は追及するのをやめた。 「キミが……渡月遥、か?」 「え?」 「先ほど、式獣使いを名乗る者がこの建物に入って行ったと、外の巡査に報告を受けたが……それはキミのことか、と聞いている」  凛とした青年の声は、静かだが強く、自信に満ちている。そして、数瞬前までスピカを見つめていた深い茶色の瞳は、まるで何かを試すかのように真っ直ぐに遥に向けられた。  途端、遥の心臓が不意にトクンと跳ねる。  その瞳の奥に映った何かに引き込まれそうになるのを抑えて、遥は首を縦に振った。  「本部や署への連絡もなく、自分勝手に動かれるのは迷惑だ」 「え……?」 『空良(あきら)さまっ!』  遥が戸惑っていると、いつのまにか青年の傍らから姿を消していた式獣の声が背後から、建物の奥から聞こえてきた。  遥が青年とほぼ同時にそちらへ顔を向けると、空良と呼ばれた青年は怪訝そうに眉をひそめた。  しかしすぐに何事もなかったかのように、駆け戻ってきた白犬に視線を戻す。 「……要救助者、発見したか?」 『はいっ、奥に倒れている男性が一名おりましたわ! 早くこちらへ……』  鈴の音を思わせる綺麗で可愛らしい式獣の声は、微かに震えていた。 「了解、今行く!」  空良は報告を聞くや、すぐに奥へと駆け出した。  遥も当然のように後を追いかけ、救助の支援を申し出たが、すぐさま「邪魔だ」と一蹴されてしまった。  それでも何か役立とうと建物の中に残った遥だったが、空良と式獣、合流した消防側のレスキュー隊員たちによる鮮やかな救助活動を目の当たりにして、ただその場に立ちつくす羽目になったのだった。
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