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*4*
遥が彩瀬署に着いたのは、9時半を少し回った頃だった。
署に入ろうとしたところで、なぜか守衛に怪しまれて引き止められたり、署内に入ったところで式獣課がどこだかわからず、さ迷ったりした遥だったが……交通課の女性に案内され、2階突き当たりにある小さな一室――彩瀬署式獣課(に辿り着くことができた。
ノックの後、中から「どうぞ」と男性の声がして、遥とスピカはドアを押し開けた。
広さ20畳ほどの空間に、向かい合わせに並んだデスクが4つ、窓際に1つ。それぞれの机の上にはノートパソコンが1台ずつ、窓際の席にのみ、無線機が置かれていた。
壁には、大きなホワイトボードが2つ掛けられていて、ドアのすぐ左横のボードには、月間カレンダーと、課員の予定表が書き込んである。
奥に掛かっているボードは真っ白で、その下に大きな長方形のテーブルが置かれていることから、会議用らしかった。
遥は部屋を見回した後、ふと自分の立場を思い出して姿勢を正した。
「初めまして! 本日付で彩瀬署に配属になりました、渡月遥と、こっちが絆侶のスピカです! どうぞよろしくお願いします!」
『……おいおい、相手は一人しかいないのに、大声出すことないだろ』
スピカのツッコミに、ポニーテールを元気よく揺らして頭を下げた遥の顔が、カァッと朱く染まった。
と、右奥のデスクでノートパソコンに向かっていた黒いスーツ姿の男性が遥を見やり、静かに立ち上がった。
「ああ、あなたが渡月さんですね。ようこそ、彩瀬署式獣課へ。初日からいきなり現場に立ち会うなんて、疲れたでしょう?」
黒髪の真面目そうな青年は掛けていた銀縁眼鏡を右手で外し、胸ポケットにしまうと、遥の方へと近づいてきた。
身長180センチ以上はあるろうかという長身だが、細い体つきと優しそうな雰囲気のせいか、威圧感はまったく感じられない。
「私は情報担当の、花島愁一郎といいます。よろしくお願いしますね」
ゆったりと静かに響く声が遥の耳を心地よく刺激する。一言で表現するならば「癒し系」と称されるだろう優しい微笑みに、遥の頬は思わず緩んでしまった。
「疲れるだなんて、とんでもないです。私はほとんど手伝えなかったし……って、なんで救助のこと知ってるんですか?」
「あぁ、それは、絆侶のコルンの特技が情報収集なので……」
愁一郎が言った瞬間、わずかに開いていた窓から、鳥が一羽舞い込んできた。
オウムに似た姿だが、身体の色はあまり見たことのない薄水色で、尾羽は鮮やかな紅色をしている。
鼻から目にかけては白くなっていて、その中心には契約印が刻まれていた。
スピカがしているような首輪の代わりに、左足首に白い足環を付けている。
『おっ、嬢ちゃん、ようやく着いたんかい。いやぁ、さっきはエエもん見せてもらったよ。ま、ほとんどそっちの彼の功績じゃけどな』
フォッフォッとお爺さんのように笑うコルンに、遥は苦笑し、スピカは唸った。
『その口ぶりからすると、オイラたちが必死に爆弾処理してた時、どっかから見てたのか。高みの見物とは良い御身分だな』
「ちょっとスッピー、なにケンカ腰になってるのよ。コルンさん、すみません」
『これは失礼、絆侶殿の気分を害してしまったようじゃな。まぁ、知りたい情報があったらワシに何でも聞いておくれ』
「ところで、他の方は……?」
置かれているデスクの数から推測するに、あと3~4名の式獣使いが居そうなのだが。
「私の他に3名在籍しているのですが、課長は今、任務に出ていますし、灯也くんはおそらく遅刻、香澄さんは……」
と言いかけた瞬間、遥の立っていたすぐ後ろの扉が開き、妙齢の女性が入ってきた。
左サイドでアップに纏められたアッシュブラウンのウェーブ髪から、ふわりと甘い香水の匂いが漂ってくる。
真っ赤な薔薇色のルージュに、胸元の大きく開いた白い制服の上着、救助活動用とは異なる、白のタイトスカートからは細長い脚が覗いている――溢れんばかりの大人の女性の魅力に、遥は目を丸くした。
「あら、あなたが噂の新人さん?」
「え、あ、はい! 初めまして、渡月遥です! こっちは、絆侶のスピカです!」
「あたしは治療担当の榎木香澄、こっちの彼女は私の絆侶のリラよ。よろしくね」
香澄の後ろ、足元からスルリと部屋に入ってきたのは、ブルーグレーの毛並みが美しい一匹の猫。
首輪は細い銀色のもので、使い手と似てどこか優雅な雰囲気を漂わせている。
遥はしゃがみこみ、「よろしくね」と言いながらリラを撫でようと手を伸ばした。
しかし、リラは素っ気なくその手から逃げるようにすり抜けると、スピカの前で立ち止まった。
『あなた、血のニオイがしますわ……』
「やだ、その子ケガしてたの? 手当てしてあげるから、早くこっちへいらっしゃい」
リラの指摘に、香澄はすぐさま棚から救急箱を取り出すと、慣れた手つきで小さく丸まった脱脂綿をピンセットで摘み、瓶に入っていた赤黒い消毒液に浸した。
手際良いその様子を、スピカを膝に乗せてイスに座った遥はじっと見つめる。
「ほら、傷口を見せて」
スピカはおとなしく、傷ついた右前脚を差し出す。
見ると、すでに乾燥して黒く固まった血が、肉球と肉球の隙間にべったりと付いていた。
「うわ……痛かったでしょう、スッピー」
『これくらい……』
平気だ、と言おうとした瞬間、消毒液を含んだ脱脂綿が傷口に触れ、スピカはビクリと身を固くした。と同時に、遥の右手甲にもチリッと小さな痛みが走る。
「……っ!」
『オイラの方こそ……遥にまで痛い思いさせて、悪かったな』
「スッピー……」
ごめん、と遥は心の中で再び謝った。
なぜなら、さっきリラに指摘されるまで、配属への不安と緊張で頭がいっぱいになっていて、またスピカのケガの事を忘れかけていたのだ。
そんなの、絆侶として失格だ。
しかしスピカは、遥に心配をかけまいと平然とした態度のままでいる。
それどころか、唇を噛み悔しそうにしている遥を気遣うように、その手を優しく舐めた。
その様子に何かを察した香澄は、消毒する手を止め、呆れたようにため息をつく。
「ふたりとも、そんな顔するくらいなら、ケガなんてしないよう気をつけなさいよ、ったく。今日は特別よ」
「特別……?」
遥とスピカが不思議そうに首を傾げた横で、香澄は胸ポケットから指先部分がない白い革の手袋――甲の部分に金糸で四つ葉のクローバーが刺繍されている――を取り出した。
「その手袋って……」
嵌めることによって、絆侶との過度な痛覚の同調を抑えたり、式獣の持つ能力を発揮する際に力の暴走を防いだりする効果がある優れモノだ。
遥も式獣学校の授業で、何度か使ったことがあるので見覚えがあった。
香澄はその革手袋を契約印の刻まれた右手に嵌めると、デスクの上で座っていたリラを抱え上げ、彼女の額をスピカの右前脚へと近づけた。
「リラ、お願い」
『ええ……』
途端、淡い緑色の温かな光が放たれ、みるみるうちに傷口が塞がっていく。
「わぁ……すごい!」
治癒能力を持つ式獣がいることは知っていた遥だったが、こうして力が発揮される瞬間を間近で見たのは初めてで、思わずその目を輝かせた。
「はい、治療おしまい。あーあ、消毒液、無駄遣いしちゃったじゃないの」
『……遥、この人に、お礼を伝えといてくれ』
「あ、うん。あの、榎木先輩、リラちゃん、スッピーがお礼を言ってます。それに私からも、ありがとうございました」
スピカの声は絆侶である自分以外には聞こえていないことを思い出した遥は、スピカの言葉を香澄に伝える。
他の式獣の声まで理解することができる遥の方が特殊なケースで、これは遥だけの持つ特殊な能力だ。
普通、他人の絆侶と会話をする時は、自分の絆侶に通訳してもらうような形になる。
「どういたしまして。ところで花島さん、アイツはまだ来てないの?」
「ええ、指導係が不甲斐ないばかりに、香澄さんにまでご迷惑をお掛けしてしまって……本当に申し訳ないです」
「あらやだ、花島さんのせいじゃないわよ。まったく……任務に遅れて課長に睨まれるのは、あたしなんだから……もぅ」
香澄は大きなため息をつきながら、パタン、と力なくデスクに突っ伏した。
「あの……」
「あぁ、失礼。渡月さんのデスクはそこですから、そのまま座っていて構わないですよ」
会話に入れずに戸惑っていた遥に、愁一郎は、ノートパソコン一台だけが置かれているデスク――香澄のすぐ左隣のデスクを指さした。
しかし、遥は慌てて首を振る。聞きたいのは別のことだ。
「えっと、そうじゃなくて……課長さんっていうのは?」
ここにいる二人も、遅刻しているという人も、どうやら課長ではないらしい。ならば、残っているのは、さっき現場で会った彼、ということになるのだが。
「あれ? 先ほど現場でお会いになってきたのではなかったのですか?」
愁一郎の言葉に、遥とスピカは顔を見合わせる。
『まさか、あのいけ好かない野郎が?』
「あの人が課長さんだったんですかっ!? 私と年が近そうに見えたのに? あ、でも、たしかに、態度はやたら偉そうな、課長っぽい態度だったわよね、スッピー?」
『ああ。実は、ただ童顔なだけのオジサンなんじゃねーか?』
「なるほど。見た目と違って、実はオジサン、かぁ。超有り得る~!」
さらりと課長に対する批判的な印象を語った遥に、空良をよく知っている愁一郎と香澄は、思わず吹き出した。
一方の遥たちは、なぜ笑われたのか分からず、首を傾げる。
「空良くんは……いえ、朝霧課長は見た目どおり19歳ですよ。ですが、一昨年、17歳の時に最年少で課長になった、とても優秀な方です」
「17歳で課長!?」
「ええ。それにしても……さっきの口ぶりだと、彼に何か言われたのですか?」
言われたというより、説教されたんだけど……と、遥は思い出して眉間に皺を寄せた。
スピカも同様に嫌そうな顔をした、その時。
ドアがバタンと大きな音を立てて押し開けられ、一人の青年が騒がしく駆け込んできた。
「うおーっ、また遅刻しちまった! って、あれ? 課長まだ来てないじゃん、ラッキー!」
日焼けした浅黒い肌に、ハリネズミみたいにツンツンと逆立った明るい茶髪、左耳には金色のイヤカフ。
黒地のジャンパーに洗い晒しのジーンズ、黒いブーツに黒革のグローブという格好は、非常にラフな……悪く言えば警察署に補導されてきた不良青年のようだ。
「おはようございます、灯也くん。ちなみに、課長は朝から出動しているだけですよ」
「うわ、マジかよ。じゃあまた遅刻の反省文、書かされるのか……」
「ちょっと、灯也! 10時半から北彩瀬小でPR活動の打ち合わせがあるってのに、なに 堂々と遅刻してんのよ! 早く仕度してきなさい!」
ガタンと音を立てて立ち上がった香澄は、腰に手を当て、灯也に向かって怒鳴った。
「え、あれって明後日に変更になったじゃん……って、言ってなかったっけ?」
「はぁ? そんな話、聞いてないわよ?」
「なんか、担当者が3月末……昨日で異動になったんだってさー。あの人、すっげぇ張りきってたのに、残念だろうなー」
「……予定が変わったならすぐに報告しなさい、って何度言ったら分かるの!」
「あー、怒んない怒んない。ほら、ココに皺が寄ってるぜ、香澄」
人差し指で自分の眉間をつつきながらヘラっと笑った灯也に、香澄の眉が吊り上る。
「なんですって? 大体、あたしのこと馴れ馴れしく呼び捨てしてんじゃないわよっ! アンタの方が歳も一つ下だし、後輩なんだからね!」
「じゃあ……エノちゃん、ってのはどう?」
「却下よ、却下!」
突如始まった言い合いに、遥はイスから腰を浮かせた状態で呆然とした。
二人の激しい言い合いにも驚いたが、先ほどまでと全く違う香澄の態度の豹変ぶりにもビックリだ。
一方のスピカは遥のデスクの上に乗り、面白そうに様子を眺めていた。
「……あの方も、式獣使い、なんですか?」
「ええ、一応……」
遥の問いに苦笑しながら頷いた愁一郎は、仕方なさそうに二人の間に割って入る。
「ほら、灯也くん、かわいい新人さんが驚いていますよ。今日はもうその辺で……」
今日は、ということは、日常茶飯事なのか、とスピカがつぶやく。
「お? キミが今日配属された子? かわいいねぇ! どっかの誰かさんとは大ちが……」
「なにか言ったかしら、灯也?」
香澄が灯也を睨み、言い合いが再開しかけたのを、愁一郎の涼やかな声が止める。
「はい、今日はそこまで。彼女に……渡月遥さんに、ちゃんと自己紹介してあげて下さい」
「愁先輩がそういうなら。へぇ、遥ちゃんっていうんだ? オレは風見灯也。で、こっちが絆侶のレプス……って言っても、まだ寝てるけどなー」
「アンタの絆侶は1日中寝てるでしょうが」
「はっはっは。それもそうなんだけどさー」
ジャンパーのフードを親指で指さしながら豪快に笑う灯也は、明るくて面白そうな人だ。
遥はその軽い雰囲気にホッと息をつきながら頭を下げると、絆侶の姿をみるべく、灯也に近づいていった。
(フードの中に式獣がいるの?)
堪えきれない好奇心の果てに、遥はピョン、と飛び跳ねる。と、覗き込んだフードの中で寝息を立てていたのは……一匹の兎。
栗色の柔らかそうな毛並みをもち、ペタンと垂れた耳が特徴の、ロップイヤーラビットと呼ばれている兎にそっくりだ。
違うのは、その額に、他の式獣同様、契約印が刻まれ、ピンク色の首輪をしているところだけ。
「うわぁ……かわいい~!」
遥が顔を綻ばせながら、その小さな身体に手を伸ばした瞬間……なぜか愁一郎と香澄が動きを止め、灯也が「しまった」というような表情になった。
『今……ボクんこと『かわいい』言)うたんはドコのどいつや?』
「え?」
遥が首を傾げながら、不機嫌そうな声のした方、フードの中を改めて見ると、そこには目の据わった兎が一匹、遥を睨みつけていた。
「遥さん、避けて!」
愁一郎の叫びと同時に、フードから身を乗り出したレプスが遥の頭に突撃をかけた。
勢い余って尻餅をついてしまった遥が、小さな悲鳴を上げる。
「ワリぃ。言いそびれたけど、こいつは『かわいい』って言われるのが一番嫌いなんだ」
そういうことは先に言っておけよ、とデスクから降りて遥に駆け寄った、スピカの冷ややかなツッコミが入る。
「そ、そうだったんですか……。ごめんね、レプスくん」
『ボクは女や!』
「わっ、女の子だったの!? ごめんなさいっ。えーと、じゃあ、レプスちゃん」
『けっ! そんなん呼ばれたら、気色悪くてかなわんわぁ』
再びキレるレプスに、慌てふためく遥。
そのやり取り――絆侶にしか聞こえないはずのレプスの声に、遥が普通に応えていることに気付いた灯也が目を見張った。
「あれ? 遥ちゃんって、もしかして……」
「お前たち、何をグダグダやってる! サッサと仕事しろ!」
いつのまにかドアの前で仁王立ちしていた、空良の冷たい声が課内に響き渡った。
一瞬、反論しようとした灯也も、愁一郎たちがすんなりと従うのを見て、諦めたように口を閉ざすと、座り込んだままの遥の腕を掴んで引き上げた。
礼を言う遥の頭上から、レプスはピョンと跳び、灯也のフードの中へと戻っていく。
『なんか、すげぇ部署に配属されたな……遥』
「うん……」
なるほど確かに――面白い部署のようだ。
兄の言葉に納得した遥は、スピカに頷き返すと、自分のデスクについたのだった。
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