第1話 彩瀬署へようこそ?

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 *8* 「お疲れ様です、遥さん。紅茶でも飲んで、休憩してはいかがです?」  18時半を過ぎた頃、いつの間に戻っていたのか、ティーカップを手に愁一郎が現れた。  立ち上る湯気からは、甘い桃の香りが漂ってくる。 「わぁ、ありがとうございます~!」  キーボードを叩いていた手を止め、カップを受け取った遥は「いただきます」と言ってからそっと口をつけた。 「これ、すごく美味しいですね。紅茶……ですよね?」  普段、紅茶にはたっぷり砂糖を入れないと飲めない遥だったが、このお茶なら甘い香りがするので砂糖なしでもいけそうだ。 「白桃(はくとう)紅茶ですよ。妻が職場用にと、買ってきてくれたんです。お気に召したのでしたら、給湯室に茶葉が置いてありますので、好きなだけ飲んで下さいね」 「わーい、ありがとうございます……って、え、花島先輩って結婚してたんですか!?」  そういえば、愁一郎の左手の薬指にはシルバーリングが光っている。 「(わたくし)は来年で三十路(みそじ)ですし、別におかしくはないでしょう? あ、では、今年5歳になる娘がいるって言ったら、もっと驚かれます?」  眼鏡の奥の優しげな瞳が、茶目っ気たっぷりに細められる。 「わ、ホントですか!? ビックリです!」  遥が驚いて何度も頷くのを見た愁一郎はさらに、胸ポケットから式獣手帳を取り出し、中を開いて見せた。  身分証の入っているカバー部分に、娘と一緒に映っている小さなシール状の写真が一枚、貼られている。  少女のクリクリとした瞳は楽しげに輝き、触ったら柔らかそうな頬は桜色に染まっている。 「きゃーっ、すっごくかわいい子ですね~」 「でしょう? 優しい芽、と書いて、優芽(ゆめ)、というんですよ」 『……親バカ?』  と、横でつぶやいたスピカの頭をペシッと叩き、遥は引きつった笑みを浮かべた。  お世辞でなく本当にかわいいと思っていたのに、そんなツッコミ入れられたら気が萎える。 「どうかしました?」 「あ、いえ、何でもないです! そっ、そういえば、課長はまだ戻ってないんですか?」  一緒に出て行った愁一郎が戻ってきているのに、彼の姿だけ見当たらない。 「いえ、空良くんも署に戻ってきていますよ。地下でトレーニングしてくるそうです」 「うわぁ、もう勤務時間とっくに過ぎてるのに訓練ですか……」  そんな上司を凄いと思ったのと同時に、あることに思い至り、遥は目を伏せた。 「遥さん、何か気がかりでもあるのですか?」 「あの……私、課長に嫌われてるんでしょうか?」  今朝から怒られてばかりだし、報告書の件にしても、ちょっとした嫌がらせだったのかもしれない。  しかし、遥の考えは微笑んだ愁一郎にあっさりと否定された。 「ああ見えても、彼は結構、あなたが来るのを楽しみにしていたんですよ」 「そうなんですか?」 「ええ。彼はその……失礼ですけど、とても不器用な方でして……滅多に自分の感情を人に見せないだけなんです。だから、大丈夫。遥さんは嫌われてなんかいませんよ。それどころか、気に入られてる方だと思います」 「いや、さすがに気に入られてるってことはないんじゃ……」 「本当ですよ。まぁ、歳も近いですし、おふたりとも、男女それぞれの最年少式獣使いという同じ立場ですから、期待している部分があるのかもしれませんね。現に、彼自ら、遥さんの指導役を務めるようですし」 「指導役?」 「ええ、指導役といって、新人には必ず先輩が一人サポートにつくことになっていまして。いつもでしたら私が……」  一昨年(おととし)、香澄が別の部署から異動してきた時はまだ課長職になかったものの、署の説明などは全て愁一郎任せだったし、去年、灯也が新人として入ってきた時も、すぐに愁一郎を指導役に指名していた。  なのに今回、愁一郎は遥のことでまだ何も頼まれていなかった。  ということはつまり、空良自身が遥の面倒をみていくという意思表示なのだろう。  愁一郎の説明に、遥は複雑な気分になって苦笑した。  ものすごく真面目で厳しそうで、何を考えているのかわからないだけで、決して嫌いというわけではないけれど。 「……が、頑張ります」  遥がため息混じりに言うと、デスクの上に愁一郎の絆侶――コルンが舞い降り、じっと見つめてきた。  遥は自分の能力がこれ以上、露見しないよう、何も聞こえないフリして目を逸らしたのだったが――。。 『うーむ。遥殿は胸が小さいのぅ。ワシぁ、香澄殿くらいが好みなんじゃがー』 「なっ!?」 「コルン! 女性になんてことを!」 「……あ」 「遥さん、ちょっと失礼しますね。仕事の邪魔をしてすみませんでした。ほら、コルン、こっちへ来なさい」  おっとりとして見えた愁一郎は、意外にも素早い動きでコルンの身体をガシっと掴むと、式獣課から足早に出て行った。 『さっきの灯也ってヤツの言った通り、遥の能力、彼にもバレてたな』  愁一郎がコルンを連れ出したのは、遥にコルンの声が聞こえていると知っての行動だ。 「……だね。もういいよ別に。減るもんじゃないし……」 『そういう問題かよ』 「いいの! さー、仕事しごと! 早く終わらせて帰るわよ」  それから遥が報告書を仕上げて彩瀬署を後にしたのは、19時半を少し回った頃だった。
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