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鬼とカワウソ
葦原美鈴は、お腹に新たに芽生えた命を感じて、思わずお腹を撫でていた。
憎しみと共に生きてきた自分に、こんな形で慶事が起こると思わなかった。
よく考えると、子供の父親も十分美鈴と同じような虐げられた人間だった。
負け犬同士の傷の舐め合いとは思いたくなかった。ごく自然に美鈴は温羅と寝た。美鈴にとっては温羅は誇り高い男で、我が身に起きたことに一切の後悔はなかった。
窓の開いた音がした。温羅はマンションのベランダに立ち、夜のような暗い空を見つめていた。
「尊。どうしたの?」
温羅は鬼ではあったが、元々戸籍を持っていて、名前を浦部尊と言った。
美鈴の中では、とっくに自分は浦部美鈴だと思っていた。
「恐ろしい霊気が渦巻いている。私ですら木っ端のように吹き散らすかのような。あの情報に間違いはないようだ」
妖魅達は震撼したのだ。魔上皇崩御の報を受けて。
「本当?あの人はそう簡単に死ぬような人じゃないけれど」
「簡単ではない、恐ろしい事が起きたのだろう。百鬼姫の動向も不明だ。私達を慮ったのだろうが、情報がない状況で都内に起きた異変は何だ?思い当たるとすれば羅吽と言う鬼と、あの禍女の皇と言う少女だろう。魔上皇は、一人この状況が見えていたのだろう。一人で迎え撃とうとして敗れたのだとすれば、残る希望は百鬼姫と魔神皇だけだ。しかし、我が主人は百鬼姫だけだ。帰依を誓いし百鬼姫は一体何をしているのだ。そこでなのだが」
温羅は言葉を濁した。美鈴はすぐに悟っていた。
この男は、捻くれ者でどうしようもないネトウヨなのだろうが、どこまでも義理堅い男であるのは間違いない。一度軍門に下った百鬼姫、田所紀子の為なら命を捨てて闘うだろう。
私を捨ててでも。
今になって、美鈴の胸がずきりと痛んだ。
「そこで一つ確認するが、美鈴、お前、今後はどうするのだ?思えば意志をきちんと確認していなかった。私の妃になる気はあるのか?いや、たとえ違おうと、二千年近くぶりの我が子を懐妊した女を捨て置く気はないのだ。どうだ?改めて問おう。私の妃になってはくれないか?私には麗しき鬼女が必要だ。葦原美鈴よ。どうか、私と添うてくれないだろうか?」
こんな時に、こんな唐突なプロポーズされて。
嫌な訳ないでしょうが。
「結婚式は豪華にしましょうね。鬼ノ城でしましょうね。尊さん」
逆にキョトンとした温羅は、何度も頷いた。
「そ、そうか!この最悪な状況で!それでも!我等には希望の光が!」
などと言っていると、傷ついたニホンカワウソがヨロヨロと入ってきて、そこで崩れ落ちた。
「カワウソ!無事か?!何がどうなっているのか?!」
「西国を差配遊ばされる鬼の王温羅殿に奏上申し上げる」
「そのような儀礼は要らぬ!現状を!魔上皇様は、本当に崩御されたのか?!」
カワウソの目に涙があった。
「左様にございます」
「して、姫は?!百鬼姫はどちらにおわすか?!」
「こちらの陣営は瓦解寸前でございます。魔上皇猊下はお亡くなりになり、現在魔上皇后様は莉里様と共に魔上皇様復活の為奔走されておられます」
何?!温羅は声を荒げた。魔上皇復活だと?
上手く行けば良いが。それだけではございません。カワウソは言葉を継いだ。
「風間静也は羅吽に討たれた次第にて、百鬼姫様は神の先導の元一人冥府に向かわれましてございます。それだけでなく、魔神皇流紫降様も今は何処におわすのか。館の妖魅は龍姫鳴神様以下多くの者が去り、一人残された私は館の外に出たところ、雑多に涌き出でる爬虫類系妖魅に不覚をとり、されど我が胸に去就するは力強き温羅殿の存在。匂いを辿り、遂に到着した次第にございます」
「口上あっぱれである。だが一つ聞こう。なぜ一人で出たのだ?あの館は霊的防備に優れている。妖魅達がいないとて中にいればしばらくは安泰であろう」
そ、それは。カワウソは言葉を濁した。葦原美鈴は一人真相に至り、ポツンと呟いた。
「逃げだんだ。一人というか一匹で。地震の時はまずネズミが逃げるっていうし」
カワウソは汗が止まらなくなった。汗腺などないのに。
「まあよかろう。お前はそういう奴だ。事が全て成就した暁には、莉里お嬢様が尚お前に信任を置いているといいな。この卑劣な不忠者め」
カワウソは慌てて声を荒げた。
「お待ちください!屋敷の安泰を思えばこそ!今も残るは身分卑しき排泄物とおかっぱの御法度娘のみ!あとは木っ端のような新入りの兄妹だけでござりまする!火急の時にて一人命をかけて伝令と助力を温羅様にと思うておったのです!一人山に逃げようなどとは思っておりませぬ!全てはお家の為でございます!」
「本当によく口の回る。であるか」
温羅は立ち上がり、青雲剣を掲げた。
「ならば向かうぞ!魔上皇と姫様の元に!報恩の時は今来たれり!行くぞ我が友カワウソよ!」
へ、へえ!と涙を流したカワウソと共に、温羅は一人進軍を開始した。
「東京は分断され、我が配下とも連絡も取れず合流も出来ぬ。戦力は都内の僅かな数のみである。そこまで見越していたとすれば、やはり大したものだ禍女の皇は。勘解由小路邸を守りきるは我等が宿命。何があっても守りきるのだ。美鈴、宜しくあとを頼むぞ」
「解った。待ってて」
美鈴はすぐに戻り、一人と一匹の後ろでそれを擦り合わせた。
火打石の火花を受け、温羅とカワウソは勘解由小路邸を目指して飛び出していった。
去っていく夫の背中を見つめながら、美鈴はこう思った。
いい人なんだろうけど、チョロすぎ。すぐ騙されそうね。
去っていく子供のような背中を、美鈴はいつまでも見つめていた。
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