魔神皇降臨

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魔神皇降臨

その頃、秩父山中は激烈な戦火が燃え上がっていた。 軍勢を得た若き魔王流紫降に対し、敵の動きは早かった。 山林は、既に多数の軍馬で囲まれていた。兵の背中に背負った旗には、大きくWの頭文字があった。 歴史に詳しい者には説明するまでもなかった。 ワラキア公国軍。かつて東ヨーロッパにあった小国の旗ではあるが、イスラム教徒にとってその旗は恐怖の象徴でもあった。 その先頭に立つ王の名を知らない者はまた皆無だった。 男の名前は、ブラド・ツェペシュ。カズィクル・ベイ。トルコで串刺し公の名を冠する王には、もう一つの(あざな) があった。 その名は誇り高き吸血鬼の王、ノスフェラトゥのドラキュラといった。 「我等の神は勝利と繁栄を約束した。禍女の皇ヤコの名の下に、全ての死体を積み上げよう。惰弱な劣等なる者に恐怖を。我は串刺し公。既に山は我が軍勢に併呑された。進軍せよ。麗しき少年を串刺しにしてヤコ様に捧げるのだ」 ブラド公は、恐るべき速度で集結し、進軍していった。敵対する妖魅は全て、老いも若いも男も女も大人も子供も関わらず、皆殺しにしていった。 ブラド公の前に、縛り上げられた岩石系妖魅の姿があった。八千代のさざれという名の首魁だった。 「貴様が敵の首魁か。ヤコ様に敵うと思うのか」 傷ついた岩妖魅は、憎々しい表情で唾を吐いた。 「惰弱にして義を介さぬ哀れな賊軍共。儂を殺せ。されど魔神皇様はその限りにあらず。お前が魔神皇様の尊顔を拝することは決してないわ!」 「よかろう。我が邪器(ダーケスツ)に沈むがいい。我が杭から逃れられると思うな」 地面から無数の杭が飛び出し、古来から生き続けた巨岩を串刺しにし、粉々に砕いていった。 「もう少し進め。それでも出てこぬなら良い。森を焼き払え。ネズミ一匹逃さぬ。ん?何を震えている?己が怯懦(きょうだ)何人(なにびと)の所為にするのだ?」 側人の震えを咎めようとして、ブラド公は自分もまた震えていることに気がついて思わず瞠目していた。 気づけば、ブラド公以外の全員が消滅し、軍馬すら存在していなかった。 「出て来るが良い!ヤコの御稜威は既に隣国すら席巻しているのだ!貴様が如き偽帝の出る幕などーー!」 ブラド公は、その言葉が途中で途切れ、次いで、地面が消失し、己が体が落下するような思いに晒されていた。 恐ろしい何かが来る。何もかもを斬獲し、全てを弥終(いやはて)に押しやるような、名状し難い恐怖がやってきた。 雑兵など存在することすら許されない、全体像すら観測出来ぬ巨大すぎる霊気が、ブラド公を包んでいた。 「ば、馬鹿な。この私が、ブラド・ツェペシュと呼ばれた私が」 「八千代のさざれさん達には悪いことをしてしまった。誰にも見せたくないんだ。今の僕のこんな様を。父さんががっかりしちゃいそうでね」 ドラキュラと呼ばれた悪魔は、声のする方を見ようとした。 しかし、見えたのは彼が提げている剣の鞘や柄、すらりとした指、細い足首。体の部分部分だけが見えて、全体像は決して見えなかった。 魔神皇は、ヤコの呼んだ夜よりも暗い闇を纏って見えた。 「ヤコの、あの子のことだ。貴方の過去の業績も栄光も何一つ見ようとせず、表面上のくだらない特徴だけを取り出したんだろうね。君の名前は、そうだな、血を吸うから蛭間さんだろうね」 ブラド公は言葉を完全に失った。確かに、ヤコは彼を蛭間さんと呼んでいたのだった。 「うん。八千代のさざれさんはいずれ復活するだろう。そうだね?さざれさん」 「御意」 突如声が発せられ、ブラド公を羽交い締めにしていた。 魔神皇の霊力は、平然と、殺したばかりの岩妖魅を復活させていた。 魂魄理論の恐ろしい運用があった。 砕けた石という魄に、復活させた魂を定着させ、瞬く間に魂魄揃った元の姿に。 気がつけば、魔神皇の背後には、殺したはずの全ての妖魅達が集結し、魔神皇に傅いていた。 御目見など許さぬように。全ての妖魅達は、自発的に魔神皇を見ていなかった。 見ているのは、自分だけだった。 「この天神断御剣(あめのかみだちのみつるぎ)は神すら切り裂くという。ワラキアの王ブラド三世。ペルシアを震撼させた誇り高き救国の王よ。君は不当に地獄に落とされた。君を終わらせられるのは僕だけだ。跪いて首を垂れろ」 ああ。いと高きお方。 ブラド公は自分から両膝をついて、頭を深く下げた。 言葉に尽くせない多幸感に包まれていた。 「貴方様こそが本物です。あんな禍女の皇など、貴方様に比べれば。あれこそが愚劣な賎帝(せんてい)でございます。この命、全て貴方様に捧げます。麗しき我等が、魔神皇様」 天津神断御剣が、ブラド公を容易く切り裂いていた。 納刀していると、空から巨大な龍が降下し、忽ち人形(じんけい)をなして流紫降に平伏した。 霊的国家諏訪の首魁、龍姫鳴神だった。 「ああ。来たね。家はどうしたの?」 「我がお大事は魔神皇流紫降様の玉体の安寧のみでございます」 「(ジャスパー)ちゃんは僕の大事な双子の妹だ。彼女を放って何を守るか?」 恐ろしい気配に完全に怯えた鳴神は、額を地面に押し付けた。 「お叱りは甘受奉ります!どうか!魔上皇猊下崩御の後、流紫降様を失えば、この国は完全に闇に覆い尽くされるは必定!流紫降様の御身の安寧のみが我が願い!どうか!」 「うん、そうか。ごめんね迷惑かけて。ああそうだ。鳴神さん、小太郎を知っている?ちょっと試してみたいことがあるんだ。家に帰る前にスパッとやってみたいんだ」 禍女の皇の僕となった悪魔でさえ容易く屠る恐怖の魔王は、あどけない声でこう言った。
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