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大切なこと
人の冷蔵庫の中身を使って料理する自信はなかったが、食材を確かめると、チャーハンと野菜の煮物ぐらいならできそうだ。
「そんなんでいいか?」
「また志摩くんのごはんが食べられるんだ」
「前回は隠し味を教わったけど、今日は普通だからな。まずくなければいいと思えよ」
「育った味から想像するに、外すことはないよ」
「自信満々で振る舞える腕ないから、プレッシャーかけないでくれる?」
情けなく頼めば、由良アヤカがクスクス笑った。
料理を出すと、彼女は美味しそうに食べてくれた。食堂で飲食する姿は何度も見たが、そのときはほとんど表情がなかった。こちらがほんとうの姿だろう。
食事を終えた彼女は、怪我のために手を合わせず、俺に会釈した。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさま」
洗い物も引き受けた。自分が怪我をして一週間たてば、部屋は荒れたに違いない。彼女のワンルームは、何事もなかったようにきちんとしている。無理したんだろうな。
ゆったり過ごさせてやりたいが、うやむやにできない問題がある。俺はソファーに腰を下ろして、相手を見つめた。
「ユウトとなにがあった?」
由良アヤカは表情を強張らせてうつむいた。そちらへ静かに声をかける。
「どうしても話したくないなら無理にとは言わない。ただ、あいつも大学に来てないんだ。もし揉めてるんだったら、俺も関係してるわけだし」
相手が驚いた顔を向ける。
「大学を休んでるの?」
「一週間ぐらいになるって」
彼女は考え込む表情になり、それから申し訳なさそうに唇を噛んだ。
「こんなことになるなんて……思わなかったの」
しばらく沈黙する。長い間ためらったが、やがてポツポツと口にした。
「一週間前、あの人に『別れてほしい』って言ったの。それまで、私は距離を置いてみた。向こうは追求してこなかったし、やっぱりその程度なんだと思って。いてもいなくても同じなら、ちゃんと終わることにしたの」
次いで、淋しげな表情になった。
「恋人関係を解消するなんて簡単だし。近くにいても心は遠かった。だから、すんなり受け入れられると思ったの。でも……」
由良アヤカは呆然とかぶりを振った。
「あの人は『イヤだ、これからも自分たちは恋人だ』って。私は意味が分からなかった。とっくの昔に破綻してたんだよ? お互い踏み込まない、距離を保って本音を口にしない。そんなの、ただの知り合いと変わらない」
苦しそうに訴える。
「なのに分かってくれないの。ダメだ、って拒むばかりで。私はなにもかもイヤになって、『好きな人ができたから、あなたのことはもう好きじゃない』って突き放したの。そうしたら……」
由良アヤカは、自分の服の胸元をきつく握りしめた。
「泣いてすがってきた……あの人が。『心を入れ替えて真面目に付き合うから、行かないでほしい』って。でも、いまさら言われてもどうしようもないじゃない。もう一緒にいられないって思ったんだもの。それを正直に伝えたのに」
彼女は顔を歪めて涙をこぼした。
「『出て行ったら死んでやる』って言われた……。身動き取れずにいたら、向こうは私が折れたと思ったみたいで、近づいてきたの。私は怖くて、そばに来てほしくなかった」
俺は想像だにしない展開に口を挟むことができないまま、怯える相手をそっと抱きしめた。由良アヤカが必死にしがみついてきた。
「逃げようとして……捕まって揉み合いになって……バランスを崩して倒れてしまったの。そのとき、左腕が下敷きになった」
もう我慢できない。俺は身体を離してソファーから立ち上がった。
「ユウトのやつ、ぶん殴ってやる!」
「待って!」
彼女の右手がこちらの裾をつかむ。それを振り払ってでも、怒りを爆発させたい衝動にかられる。しかし、相手が左腕を押さえて床にうずくまったので、ハッと我に返った。
俺はひざまずいて、できるだけ優しく相手の肩に触れた。
「いまのが当たったか? 病院に行こう。背負ってでも連れてってやる。ごめんな、俺のせいで」
「大丈夫だよ……。静かにしてたら治まる。だからお願い、そばにいて」
俺は危うく、いちばん大事なことを見失うところだった。
「お前を独りにしない」
彼女はうなずいて、安心の息をついた。
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