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裏切り
部屋を出る静かな気配と、音を立てまいとするドアの開閉で、俺は眠りの世界から引っ張り上げられた。
しこたま飲んだ酒が残って、頭がボンヤリする。水分補給したほうがいいのかもしれない、と考えつつ、起きるのが億劫で横になっていた。
トイレで水を流す音がし、用を済ませた人物が出てきたようだ。けれど足音はすぐに止まり、男の驚く声が聞こえた。
「吉森さんもトイレ? 飲むと、変な時間に目を覚ましちゃうよね」
こちら側のリビング兼寝室で、四人で雑魚寝していたが、いまは二人しかいない。ベッドの上には、背中を向けて眠る由良アヤカ。
つまり、あちらのキッチンに小瀬ユウトと吉森ナナミがいる。トイレに行こうとして鉢合わせしたのか。
俺は眠気に誘われた。身体もけだるく、このまま沈んでいこうとする。そのとき、ナナミが小さく笑うのが聞こえた。
「律儀に、『ただの友人』の演技つづけてるんだ? あの二人、ちっとも疑ってなかったね」
その言葉に、寝入りばなに無理やり起こされたような、重い不快感を覚えた。ユウトが困惑の声で応じる。
「聞かれたらマズイでしょ」
「二人ともグッスリ寝てた。だから来たんだもん」
どちらも、四人のときより親しい口調になった。向こう側にいる彼らは、裏の顔をさらしている。
ユウトとナナミと俺は同じサークルの仲間だから、これまでいくらでも言葉を交わしてきた。けれど、四人のときと二人のときで態度を変えるということは、表沙汰にできない秘密があるのだ。
マジかよ……。俺は細いため息をついた。
ドアの向こうで人の移動する気配がし、ユウトの焦る声がした。
「ヤバイって、こんなとこ見られたら」
「起きてこないよ。ねぇユウト、知ってるでしょ? あたしが酔ったら、したくなるって」
「ナナミ、それはさすがに。寝てても、隣の部屋にいるんだよ? バレたらタダじゃ済まない。だから我慢して」
「いま、ユウトが欲しいの」
「解散したらラブホ行こう。いっぱいしてあげるから、ね?」
みんなの前では苗字で呼び合っていたのに、二人になったら下の名前。ラブホに行く仲。決定的だ。
彼らは俺を、いや、俺と由良アヤカを裏切っていたのだ。
一応は俺とナナミ、ユウトと由良アヤカが恋人だ。二組のカップルで宅飲みしようということになり、今夜こうして集まった。
サークル仲間の三人と、ユウトの彼女である由良アヤカ。大学やサークル、バイトや進路の話で盛り上がった。
まさか、二組の恋人の片割れ同士が、秘密裡にくっついていたなんて。
それを隠して四人で集まるなど、大胆にもほどがある。ささいな失言から事が露呈するかもしれないのに。普通なら、人前では不自然でないていどに距離を保つものだろう?
ユウトとナナミは、ドアの向こうで言い逃れのできない会話をしている。さすがに俺は、危機感がないのかこいつら、と呆れた。
この四人が友人なら、彼らがこっそり付き合っていたところで、大した問題じゃない。だが、別の組み合わせのカップルなのだ。
秘密が明らかになれば、俺と由良アヤカは不誠実な恋人に対して怒る。そして全員の関係が破綻する。考えの浅い人間でも、それぐらい想像できるだろう。
ドアの向こうの二人も酔いが残っているらしい。だが、まともな判断ができないほど呑まれていないはずだ。現にユウトは、素知らぬ顔を続けようと提案している。
ナナミは酒が強く、どんなに酔っても思考はクリアだし、記憶をなくすなんて経験もない。本来なら制止を聞き入れたはずだが――。
彼女が猫なで声で乞う。
「隣の部屋にハルキとアヤカちゃんがいるんだよ? それってすごい『クる』でしょ? ここでイケナイコトする私たちって最低じゃない? 分かってるくせに。ここでなにもせずにラブホでしたって、免罪符にはならない」
「ナナミはスリルが好きなだけ――」
言葉の途中でユウトの声が途切れた。しばしの沈黙。やがてナナミは息をついて、色っぽくつぶやいた。
「ユウトだって興奮してるじゃない」
返事はなかったが、小さく床の鳴る音がした。
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