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あかね雲
神田の安兵衛と呼ばれる、五十過ぎの老人が近江屋を訪れたのは、寛政二年の秋、すっきりと晴れた日の午後だった。
近江屋の主人・仲右衛門が慌てて離れへ通し、
「どうされました、急に?」
狼狽の色も隠さずに聞いた。
それも仕方のないことだ。安兵衛という男は表向きには、神田の隅で隠居しているだけの老いぼれ。しかし裏では、江戸の闇の世界でも指折りの顔役なのである。
そんな人が自分に何の用が……。そう不安に思っても、なんの不思議もない。
「いや、な。ちょっと、お前さんにとって危ない話を、小耳に挟んだもので」
「危ない話?」
四十を少し過ぎただけの仲右衛門は、脂汗を鼻の頭に照り光らせながら、不安の色を濃くした。
「〈あかね〉って殺し屋を、知っていなさるかい?」
「あかね?」
震える声で聞き返すと、安兵衛が深刻そうに頷いた。
「凄腕の奴さ。私も、何度か依頼をしたことがあるが、どんな難しい仕事も、見事に仕上げてくれた」
安兵衛が江戸の闇社会で殺し屋の仲介をしていることは、仲右衛門も知っていた。仲右衛門も以前、安兵衛に頼んで商売敵を殺してもらったことがあるのだ。
「その殺し屋が、何か?」
「お前さんを狙ってる」
冷たく言い切った、その声に、心臓が止まる思いがした。
「あくまで噂だがね。こんな仕事をしていると、山の向こうの犬の鳴き声まで、人の口を伝って聞こえてくるのさ」
「そんな。私が、なぜ?」
「さあ?依頼人は分からない。だが、すでに〈あかね〉は動き始めたという話だ。私も普段ならこんなことを伝えはしないんだが、縁のある近江屋さんってことで、いてもたってもいられずにね」
「どうしましょう?私には、用心棒のツテもなくて」
「なら、私の知り合いを付けましょう。浪人ですが、こいつも〈あかね〉に劣らず腕が立つ」
「それはありがたい。しかし、〈あかね〉とは、珍しい名前の殺し屋ですなあ」
胸をなで下ろした仲右衛門が、少し崩れた口調で笑った。
「なんでも、必ず夕焼けの綺麗なときに、殺しをするとか。それで、あかね雲から取って、〈あかね〉と呼ばれるそうで」
「それは、殺し屋にしては風流な……」
「しかし、腕は確かです。油断なされぬよう」
障子の外では、日が落ちかけていた。うっすらと赤紫色に変わっていく空の色が、障子に映し出されていた。
それから五日が経った。
安兵衛が訪れた翌日から、仲右衛門は店を離れ、妾の住んでいる寮に身を置いている。寮には仲右衛門と妾の若菜、そして、安兵衛から紹介された浪人・糸井右京しかいない。糸井は三十手前の若い男で、痩せた顔に不敵な笑みをいつも浮かべている、どこか気味の悪い男だった。
「大丈夫なんですかあ、あんなお侍でえ」
若菜が、舌足らずな口調で言いながら糸井を指さした。その指のしなやかな様に見ほれつつ、
「神田の隠居の紹介だ。信頼できるよ」
囁きつつ、若菜を抱き寄せる。縁側に座っていた糸井は、にやりとして障子を閉めた。
「だが、本当に信じていいものなのだろうか……?」
若い女体の上で、仲右衛門は自問した。
仲右衛門は用心棒代として、糸井に一日一両を払っている。事が終われば、安兵衛にも相応の礼をしなければならない。
「もしや、それが狙いでは……?」
「〈あかね〉の話は、私を怖がらせるための狂言で、実は食い詰め浪人に仕事を回したかっただけなのでは……?」
昼下がり。うつらうつらとする意識の中で、そんな疑念ばかりが浮かんでは消え、胸の中に名状しがたい不信感でできた靄が溜まっていく気がした。
目覚めると、障子が夕焼けに染まっていた。
「ひっ!」
乱れた着物もそのままに布団から飛び出し、
「誰か!」
叫びながら部屋を這い回った。
すぐに、障子が開いた。
「どうされました?」
糸井が顔を覗かせる。
それで、我に返った。
「あ、ああ……」
尻餅をつき、部屋を見回す。異常は、何もない。
「すみません。〈あかね〉の話が頭をよぎってしまい……」
冷や汗にまみれた顔を項垂れて、肩を上下させている。
疑わしいと思っているとはいえ、やはり夕焼け、あかね雲が恐ろしく思えてしまう。ここに移ってから毎日、夕刻には恐怖で身体が思うように動かなくなったり、発狂じみた行動をしてしまったりしている。
「その、若菜は……?」
「お妾さんなら、三味線のお稽古ですよ」
「ああ……」
若菜の姿がないことにようやく気づいた。それほどに、余裕がなくなってしまっている。
「よっぽど、〈あかね〉が恐ろしいようで」
「そりゃ、あんな話を聞かされれば誰だって」
「いや。普通のお人なら、殺される心当たりはないと、堂々とされるものさ。あんた、心当たりがあるんでしょう?」
じっとりとした、糸井の物言い。仲右衛門は顔を歪め、斜め下を見た。
「大店をやっている者には、人様には言えないことの一つや二つ、覚えがあるものなんです」
「そうですか」
糸井は小さく何度も頷き、しゃがみ込んで顔を寄せてきた。
「だが、今のあなたは病気だ。心のね。それは治さないと」
「しかし……」
「実は、もう医者を手配しているんですよ」
「えっ……?」
「旦那が眠っている間に、安兵衛さんのところから遣いが来まして。前から、旦那の様子については知らせていたんですが、そうしたら、良い医者を見つけてくださったんです。明日、早速来てくださるそうです」
「医者……」
「心配ない。来るのは、昼前。〈あかね〉が人を殺す時間ではない」
見透かしたように笑う。
「そ、それなら……」
完全に信頼したわけではない。しかし仲右衛門にも、自分の異常をどうにかしなければという思いがある。
病もそうだが、疑心暗鬼となっている状況も解決したい。このままでは、身動きの取れぬまま衰弱するだけだ。
「明日、けりをつけよう……」
激しく鼓動を打つ胸の内側で、思い決めた。
次の日。寮には糸井と仲右衛門、そして近江屋の番頭・矢汰の三人がいた。若菜は早くから芸事の稽古に出かけた。矢汰は、仲右衛門が糸井に頼んで、近江屋から連れてこさせたのだ。
「医者に診てもらうことは初めてで、不安です。誰か、見知った者を呼んで欲しい」
そうして糸井が連れてきたのが、彼だった。
安兵衛と関わりのない者が見ている前では、糸井も変な動きはしないだろう。そう思い、呼ばせた。矢汰は丁稚の頃から面倒を見てきた若者で、主人思いの働き者だ。信頼感は、他の誰よりも強い。まさか、一番信じられる者を連れてきてくれるとは。そう思った。
二人が店について話をしていると、
「旦那。お医者様が……」
糸井が庭から言った。
「上がってもらってください」
少しして、ゆったりとした足音と共に、細い体躯の男が現れた。
総髪に、涼やかな眼とはっきりとした顔立ち。知的な印象と、手に提げた薬箱。
「これは、先生」
「どうも。安兵衛さんのご紹介で参りました、私、長安と申します。近江屋さん、聞くところによると、心の病だとか?」
「そうなんです。夕焼けが、怖くて」
「なぜ?」
安兵衛の紹介ならば、と仲右衛門は〈あかね〉に狙われていることも話した。長安はただ頷き、
「それなら……」
薬箱の引き出しを開け、いくつかの紙の包みを取り出し、混ぜ始めた。薬の調合をしているのだ。
「緊張が酷くなったら、これを飲みなさい。落ち着くはずです」
「ありがたい」
薬を混ぜ合わせる長安を拝むようにして、頭を下げた。
「そういえば、このお屋敷の前を、何度も行き来している男がいましたな」
思い出したように言った。
「え?」
「着物に、真っ赤な帯を締めて。そう、あかね色の……」
言い終わらぬうちに、
「糸井さん!」
仲右衛門が叫んだ。飛ぶように、糸井が走り出す。
「まさか、あの人が?」
怯えたようにして、長安が聞いた。
頷く。これでもしかしたら、〈あかね〉を殺せるかもしれない。期待が、胸を高鳴らせる。呼吸が荒くなる。
「昂奮されているようですな。この薬を、飲むといい」
長安が調合し終えた薬を匙で掬い、紙に載せて差し出した。
頷き、早速口に含む。
「旦那様」
矢汰が、水をくれた。流し込む。
胃の奥から、すうっと楽になっていく。
「ああ、これで……、うっ!」
急に、手足が痺れた。畳に倒れ込む。息が苦しい。思うように息を吸えない。
まさか……。
声には、ならなかった。
冷たい眼をした長安が、見下ろしている。
「俺が、〈あかね〉さ」
馬鹿な。言葉は、ただ空気が擦れる音だけにしかならない。
「あんたが飲んだのは、強力な痺れ薬でね。全身の筋肉を麻痺させるから、やがて心の臓も止まる。すぐには死なないがね」
矢汰、こいつを殺せ!叫べない代わりに、力一杯に矢汰を見た。
だが、矢汰はただ黙って、見下ろしている。その眼に、恨みの色が滲んでいる。
「仲右衛門。あんたを殺すよう、安兵衛さんに頼んで、この人に取り次いでもらったのは俺だよ」
低い声で言い放つ。
馬鹿な。やはり、声は出ない。目の前が、ちかちかし始めた。
「半年前。あんた、おゆみを殺したろ。自分の思い通りにしようとして、抵抗されたから。俺は、おゆみと好き合っていたんだ」
おゆみ。苦しくて、思い出せない。殺してきた人など、それも女など、覚えていない。
腹立たしい。今まで可愛がってきてやったのに、自分を殺させるなど。怒りだけに身を任せ、
「うおっ」
力を振り絞って立ち上がった。そのまま、矢汰目がけて突進しようとしたとき、風と光が一閃、仲右衛門の視界を走った。額の痛み。
斬られたと分かったときには、また倒れていた。流れた血が、目に入る。そんなことも気にならないほど、息が苦しい。庭を目指して、もがく。死にかけの虫のように、無様に。
縁側まで、辿り着いた。仰向け。よく晴れた空に、小さな雲がちらほらと流れている。仲右衛門の目は、すっかり血に覆われている。仲右衛門の目には、青い空が夕焼け色に、白い雲があかね雲のように映った。
「終わったかい?」
飛び出したふりをして寮の周りを見張っていた糸井が、薄ら笑いを浮かべて仲右衛門の死体を見下ろした。
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