Prologue:world.execute(me);

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Prologue:world.execute(me);

 ――ぴたり。ぴたり。今にも壊れそうな拙い足音が近づいてくる。ぴたり。ぴたり。水滴のように小さく、時計の針のように確実な音色でそれはやって来る。  ぴたり。それを冷たいと言うべきか、温かいと言うべきかをその時の私には判別出来なかった。  辛うじて浮かび上がった意識は、私を私だと認識する事も、目を開く事も、声を発する事すらも出来なかった。  這いよる何かは身体全体をなぞるように包み込み、やがて消えた。  これは、夢だろうか。  こつり、こつり。死に似た音が聞こえる。  からん、からん。歌のような悲鳴が聞こえる。  どくん、どくん。澄んだ呼吸が聞こえる。  ごとん、ごとん。死に近づく音が聞こえる。  ざざあ、ざざあ。生を呼ぶ声が聞こえる。  半ば反射的に、私は掌に力を込めた。ずしんと沈み込む感触に、地面が溶けたのかと錯覚する。ここは砂で出来ていて、だから動くたび形を変えていくのは当然の事だった。  次に目を開く。ひび割れた顔が私を見ている。古ぼけた人形だった。雨風にさらされたのか、ぼさぼさの髪の毛と黒ずんだ肌が死人を思わせる。それを払い除け、ゆっくりと立ち上がる。  ふらふらと揺れる身体を手懐けて、眼前に広がる光景に目眩を覚える。悪夢であればどれほど良いだろうか。  海。見渡す限りの海だ。砂浜であるとここで気がつく。人形の他にも数多のガラクタが散らばっており、不法投棄の群れなのかと推察する。  くすんだ蒼色と純粋な白を称える空と、深く濃く呼吸する波。その中央、波打ち際の真ん中にポツンと大きな箱が立っていた。  それが何か、私は身体を起こしながら目を凝らす。そして箱の上から下まで視線をなぞらせ、息を呑んだ。いや、この表現は正しくない。呼吸を必要としないのだから。しかしそれ以外に、私の反応を的確に指し示す言葉が見当たらない。  箱の正体は自動販売機だった。見てくれこそ時代に合わせて変化していったが、その概念だけは昔から何一つ変わっていない。  料金を与え、必要なものを選べば下の取り出し口から商品が出てくる。  それはおよそ海に、それも波打ち際に立つべきものではない。壊れているのはきっとそのせいで、だがこれを置いた者はきっと意図的にそう仕向けたのだろうと私は思う。  自動販売機は延々と中身を吐き出し続けている。ごとん。ごとん。取り出し口から溢れ、商品たちはぼとりぼとりと落ちていく。  波に揺られ、転がりながら、それは無言のままそれに従い寄せては引いていく。  海へと落ち続けるそれらが何であるか、その輪郭を正確に捉えられた瞬間、きっとここが地獄なのだと悟った。  ――だ。片手に収まりそうなほど小さな赤子が、次から次へと排出されている。  浜辺に広がるガラクタは数多くあれど、赤子の数は郡を抜いている。絶えず吐き出され、そしてものも言わずにそこにある。何のために、誰のためにあるのかも分からないまま。  恐ろしいほどの静寂の中、眼の前には大量の赤子に呑み込まれつつある海と、乾ききった嗚咽を零す私だけが存在していた。  何故私はここにいるのか。  此処は何処なのか。  自動販売機に何の意味があるのか。  これは夢なのか、現実なのか。  何も分からない。  眼を閉じても、ぼとりと落ちる赤子の音が邪魔をする。 「気持ち悪い……」  思いの全てをたった一言に押し込めて、私は直前までの記憶を何とか遡らせた。西暦二〇五〇年、いつもと変わらなかったはずの朝へ。
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