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華やかな香りのオレンジ・ペコをいれたカップが私の目の前に置かれる。どういうだし方をしているのか、カチャリともコトリとも音がしなかった。
「ああ、いい香り」
たちのぼる香りにつられて私の背筋が伸びる。
「今日はお早いお帰りですね」
この店のテーブルに座っている限り、私は妹ではなくお嬢様、夏月の主人だ。
「ええ。実はバトラーに相談があったの」
「それはそれは」
夏月は微笑んだ。
「私でお嬢様のお役にたちましょうか?」
「たつわよ! 夏月兄さん……じゃない、バトラーは何度も私を助けてくれたじゃない。今度だってなにかいい知恵を買してくれるわ」
「買いかぶりすぎでございますよ」
夏月はにっこりすると、トレイを胸にくるりと背を向けた。ロングテールが優雅にそよぐ。
この執事喫茶はけっして大きな店ではない。テーブルは八席ほどだ。基本、一人の執事が二つのテーブルを担当する。
完全予約制で、執事を指名することも可能だ。
来店回数でポイントがたまり、店の商品やお菓子やケーキのサービスが増えていく。しかしなにより喜ばれているのは、あるポイントに達すると、執事を名前で呼べるのだ。
お気に入りの執事を「夏月」「秋実」「冬真」「春海」(信じられないけど春海を気に入っている人もいるらしい)、と呼び捨てに出来、執事からも名前+お嬢様と呼んでもらえる。
特別扱い。
女の子は特別扱いが大好きだ。
さらにポイントがたまると、好きな設定のお嬢様になれる。
たとえば亡命中のロシアの皇女、たとえば望まぬ結婚をした伯爵夫人、たとえばハリウッドの女優……。
要はごっこ遊びなんだけど、執事たちが本気でその設定に沿って扱ってくれるので、最初は照れくさそうにしていたお嬢様たちも、一〇分くらいでなりきってしまう。
女子は誰でも女優の素質があるのだ。
いまのところそこまでのポイントがたまっている人は一桁だが、あと一年もすればもっと増えるだろう。
夏月が今話しているお嬢様もその一人だったはずだ。設定は確か、滅びゆく国のエルフの女王……だったかな?
紅茶を飲んで秋実の新作ケーキを食べていると、夏月が戻ってきた。
「ケーキ、おいしいわ」
私が言うと夏月がうれしそうにうなずいた。
「小布施からいい栗が届いたので、秋実が腕をふるったんですよ」
「ねえ、夏月。お願いよ」
私はテーブルに肘をついて両手を組んだ。
「わたしの友達の話を聞いてほしいの。お母さんが詐欺にあって、大事なものをとられちゃったのよ。なんとかして取り返してあげたいの」
「そういうのは警察のお仕事では?」
「警察は動いてくれないのよ。動いたとしても真剣にやってくれないわ」
「なぜです?」
「とられたものが、商業的価値があるかどうかわからないから。だって素人の作ったハンドメイド作品なんだもの」
夏月の薄い眼鏡に日差しが反射して、きらりと光った。
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