act.01

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[1]  ベッドの上には、はちきれんばかりのバストの真ん中にシルバーインクの星形をくっつけている女のいやらしい笑顔がある。その顔はとても平面的で、インク臭い。  『スウィート・ビッチ』。  それがこのダーティな雑誌のタイトルだ。  学校から帰ってくるなり、本当ならベッドの下に隠されている筈の「スウィート」な「ビッチ」とベッドの上でご対面するなんて、ショーン・クーパーは思ってもみなかった。  背中にしょっている青いナップザックを下ろしもせず、硬直したままでベッドを見つめていると、戸口の方から朗らかな声が聞こえてきた。 「別に隠すことじゃない。男だったら自然なことだ。リトル・ショーンも、もうそんな年頃になったんだな。彼女ができたら、ちゃんと紹介しろよ。お祝いしなきゃならない」  ショーンはバツが悪そうに振り返った。  そこには、いつもと変わらない朗らかな笑顔を浮かべた『父親』の姿があった。  少しブラウンがかった金髪、大きなブルーの瞳。  その瞳が愛おしそうに細められる。彼はショーンの燃えるような赤毛をクシャクシャと撫でてから、階段を降りていった。  ショーンは深い溜息をついて、右手で顔を覆った。その仕草は、さっきまで子ども扱いされていたというのに、まるで苦悩する大人が酒場でするような仕草だった。  ── 俺はもう、リトル・ショーンなんかじゃない。身長もスコットより3インチ高いし、手の大きさだって一回り大きいさ・・・。  ショーンはいつだって、心の中で父親のことをスコットと呼んでいたが、それを現実に口にすることはなかった。できれば、スコットと呼びたかったけれど、それは彼にとって大きなタブーだからだ。  ショーンはスコットを愛していた。  世の中には様々な愛情があるが、ショーンがスコットに向ける愛情は、子どもが親に向ける清潔な愛情なんかではなく、もっと緊迫した十七歳独特の青臭い感情そのものだった。  ── 彼をこの腕で抱きしめたい。彼にキスしたい。彼とセックスしたい・・・。  絶対に叶わない夢だし、そんなことを思う自分が汚らしくも感じた。  いくら血が繋がっていない養父と言えども、親子であることは変わりなかった。それにも増して、男同士だ。  自分はどこか歪な生き物かもしれない。  本当の父親がそうであったように、まともな人間じゃないのかもしれない。  スコットは、貧しい中でもショーンの為だけに身を粉にして働いて、ここまで育ててくれた。  魅力的な雰囲気を持つスコットに言い寄ってくる女性は沢山いたが、ショーンがいるからと自分の幸せを優先させることもなかった。  そんな無償の愛情をスコットは自分に注いでくれたというのに、俺ときたら・・・。  ショーンはそう思いながらも、それだからこそスコットを愛してしまったのだと思っていた。  過剰な優しさは時として誤解を生む。  スコットの献身的な行いは、ショーンを惑わせるのに十分なほどであった。  いくら幼なじみの子供だったとはいえ、そこまで他人の子を愛せるのか、と。  ショーンはベッドの上の「ビッチ」を睨み付けた。  女の裸を見て興奮することができれば、自分も少しはマシな人間になれたかもしれないのに・・・。  マスターベーションはおろか、勃ちもしなかったなんて。  ショーンは、「ビッチ」を丸めて、ゴミ箱に投げ込んだ。 [2]  「ヘイ、ショーン」  学年の学力テストが終わった瞬間に、クラス中の男子生徒がショーンの元に集まってくる。  皆、興味津々な顔をして、ショーンの顔を覗き込んだ。  皆が何を訊きたいのか、ショーンには既に分かっている。  筆記用具をナップザックに入れながら、ショーンは皆に気づかれない程度の溜息をついた。  人垣の向こうに、女生徒の数人が通り過ぎ、皆がチラチラとショーンの顔を見る。彼女達はショーンと目が合うと、密に黄色い声を上げた。  だが、彼女達も次に交わされる男同士の会話を聞いたなら、その露骨さに顔を歪ませるかもしれない。 「なぁ、アレで何回ヌイた?」  クラスでも一番仲がいいポールが、女の子達が教室を完全に出ていくのを確認してからそう切り出した。  ショーンは周囲の興味津々な視線を見渡して、ボソリと答える。 「三回」  皆がオー!と膝を折る。 「やっぱレイモンドには叶わないかぁ」 「一晩に十五回って言う方がおかしいんだよ」 「でもこのままじゃ、隣のクラスとの勝負に負けるぜ? どうするんだよ」 「じゃ次はケンに頑張って貰うか」  ショーンは机の上に座って、クラスメイトが真剣に語り合うマスかき勝負の行方をとぼけた表情で聞いていた。そのショーンにケンが手を差し出す。 「ショーン、雑誌は?」  ショーンは首筋をポリポリと掻きながら、少し顔を顰めた。 「ダッドに見つかって、ゴミ箱行きになった」  皆が再びオー!と感嘆の声を上げて膝を折る。 「挽回のチャンスなしかぁ!!」 「この勝負、ジ・エンドだな」 「再度リベンジを申し込もうぜ。今度はどんな雑誌にする?」  皆、口々にそう言いながら笑顔を浮かべ、ショーンの肩を軽く叩いてから教室を後にする。  結局皆、勝負の采配よりも勝負の内容自体を楽しんでいるのだ。  ショーンも少し笑顔を浮かべ、ポールと一緒に教室を出た。  小春日和の明るい日差しがさんさんと降り注ぐ中庭に出た時、おもむろにポールが切り出す。 「でも、正直意外だったよ」 「何が?」 「ショーンがアレで三回もヌイたこと」  ショーンはちらりとポールを見る。 「三回もって・・・。ポールの方が多いくせして」 「や、そう。そうなんだけどさ」  ポールはテレくさそうに周囲を見渡した。周囲の芝生では、チアガール達がミニスカートを翻しながら熱心にフォーメーションの練習をしている。その彼女達をポールは目で追いながら、ふいに声を潜めて言った。 「何だかショーンは、そういうの興味ないかと思ってさ」  ショーンはドキリとして足を止めた。  親友に自分の嘘が本気で見透かされているのかと思い、必要以上に心臓の音が跳ね上がった。  だがポールは、そんなショーンの様子に気づかないようで、そのまま足を進めていく。 「気にしないでくれよ。大したことじゃないんだ。ただ、何かショーンって、どこかクールっていうかさ。自分を押し殺すようなところがあるだろう? 一年飛び級するぐらい頭もいいしさ、こういうバカげたことって、興味なさそうだと僕が一方的に思ってただけ」  なんだ、そんなことか。  ショーンはホッと胸を撫で下ろすと、再び歩き始めた。 「俺だって、男だよ。人並みに性欲はある」  ただし、その対象が人とは違うけれど。  ショーンは心の中でそう呟きながら、ポールと顔を見合わせた。何だか二人とも照れくさくなって、同時に笑みを浮かべる。  ポールがショーンの肩を小突いた。 「さっきジェーンがお前のこと見てたよな」  学年で一番可愛いと評判のクラスメートの名前をポールが上げる。 「ポールのこと見てたんじゃないのか?」 「違うよ、お前のことを見てたんだよ」  二人でじゃれ合いながら、笑い合う。  本当はジェーンのことなどどうでも良かった。ただ、一緒に笑い合える話題が必要だっただけだ。  小学校の時に一年飛び級して、同級生より一つ年下のショーンだったが、ポールは年下の扱いなどせず、対等な友達として付き合ってくれている。ポプラ並木の葉の間から零れてくる木漏れ日を浴びながら、学校の外の駐車場に停めているポールの車に着くまで、他愛のないことを話しながら歩いた。  そしていざ、よく手入れされたベージュのフォードに乗り込もうとした時、ポールが切り出す。 「あのさ、”ホール”に行きたいんだけど」  ポールの声が余りに小さかったので、ショーンは助手席に身体を滑り込ませながら「え? どこだって?」と訊き返した。  ポールは車のドアを閉めて、急に深刻そうな顔つきをしてみせた。 「だから。カーターホールに」  ポールがいやにテンションを上げ気味でふざけてくると思ったら、そういう理由だったのか。 「ポール・・・」  ショーンが困り果てた表情を浮かべてポールに目を遣ると、ポールは再び人なつっこい笑顔を浮かべて、肩を竦めた。 「だって今日は早く学校終わったし、バスケ部ももう辞めちゃっただろ? 午後からは暇じゃないか」 「そうだけど・・・」  今度は幾らなんでもポールの笑顔には応えられなかった。 「俺がそういうの好きじゃないこと、ポールだって知ってるくせに」 「分かってる、分かってるさ。でも、今日来ていいって、やっと言ってもらえたんだ。チャンスなんだよ」  ポールが早口で必死にまくし立てる。  ポールの夢は、ブロードウェイのミュージカルスターになることだ。  今まで、カーターホールという町の劇場に劇団が訪れる度にオーディションを受けようと、何度も交渉してきたことをショーンも知っていた。  しかし、友達の夢を応援したい気持ちはあったが、カーターホールはショーンにとって、嫌な思い出の詰まった場所に過ぎなかった。それはカーターホールに限ったことじゃない。ミュージカルやバンド活動など、およそ「ミュージック・ショービジネス」と言われる類のものには、嫌悪感がある。その手の話は、嫌でも「本当の父親」のことを思い起こさせるからだ。  ショーンが黙りこくっていると、更に焦った口調でポールがマシンガントークを続けた。 「ただ、一緒についてきてくれるだけでいいんだ。覚悟は決めてきたけど、流石に一人は心細いよ。別にショーンが歌ったり踊ったりする訳じゃないんだから、いいだろ? それに、車を運転するのは僕だぞ」  結局はそれが最後の決め手となった。  裕福な家の出のポールは、運転免許を取得したと同時に親の車を譲り受けた。いつも学校と家の間を送り迎えしてもらっている。ショーンも免許は持っているものの、家庭の事情で車など持てる余裕はない。せいぜい父親が休みの日に借りるぐらいだ。だが、ショーンの父親は働き者で、休みの日が殆どないから、ショーンが車に乗れる日も限られてくる。  ポールはエンジンを掛けながら、口を尖らせた。 「しかしショーンの音楽嫌いは酷いよ。生まれてこの方、学校の授業でも歌ったことないだなんて。いくら音痴だって、歌えば単位は貰えるんだぜ」  ショーンは聞こえない振りをして、窓の外に目を遣った。 「まぁ、本当のオヤジさんのことを考えたら気持ちは分からないでもないけど、音楽の成績だけDマイナスだなんて、もったいないよ。僕は、逆立ちしたって他の教科、オールAプラスだなんて取れない」  ふと視線を感じたのか、ポールが助手席の方に目を遣る。ショーンが、怖い瞳で睨みつけていた。見る角度によっては、夕焼けのような強い茜色を放つ独特の瞳だ。迫力がある。  ポールは両手を挙げる。 「ごめん! 悪かったよ。禁句だもんな。分かってるよ」  ポールはオーバーに謝りながら、カーステレオのスイッチを押した。  ショーンの耳にもこびりついているビートルズの歌声が流れてくる。  ショーンは再び窓の外に目をやった。  新興住宅地の真ん中にある学校の周辺は、ポプラ並木が生い茂っていて穏やかな風景が広がっている。しばらく走ると現れる旧市街の商店や散髪屋などの軒先も人々の朗らかな笑顔が溢れていて、古びてはいるが錆び付いてはいない。その光景は、酷く健康的・・・というよりは道徳的に見える。  ショーンが住むこの町は、非常に小さな町だった。  南部の影響を残した町は、数十年前まで町の中心だった旧市街と最近発展を見せている新興住宅地とで構成されている。以前は寂れた田舎町だったが、隣のC市が大企業の進出に伴う爆発的な発展を遂げ、その影響をダイレクトに受ける結果となった。今はC市のベッドタウンとして再び活気を取り戻しつつある。  町の住人は、自然に棲み分けができていた。町中で働く者は旧市街に住み、町の外に働きに行く人間は新興住宅地で生活すると行った具合で、貧富の差もそれを反映している。現に父親がC市にある大企業の重役を務めているポールは新興住宅地に住み、しがない自動車修理工を父に持つショーンは旧市街に住んでいる、といった具合だ。  それでも、表向きはそれを理由にした争い事のない、比較的穏やかな町と言えた。  車窓を流れていく景色も、いたって和やかである。  ショーンは、もうすぐ「今の」父親が働いている自動車修理工場が近づいてくるのを感じて、シートに深く身体を埋めた。  昨夜雑誌が見つかってからというもの、妙に顔を併せるのが気まずかった。  今朝も顔を合わさないように色々作戦を考えたが、結局は観念して朝食を一緒に食べる羽目になった。普段通りのスコットだったから、気まずさには余計拍車がかかる。  自分の気持ちだけが空回りしているような気がして、酷く苦しい。  だから今朝は、「行ってきます」の一言が言えなかった。 「あ、オヤジさんが手振ってるぜ、ショーン」  ショーンの代わりにポールが笑顔で手を振りながら言う。 「おじさん、相変わらずカッコイイなぁ。あのおじさんが怒って雑誌を捨てたなんて意外だよ。理解ありそうなのに。おい、ショーン返事しないのか? おじさん、何だか寂しそうだぞ・・・」  ポールがバックミラーに目をやりながらそう言う。  バックミラーを見なくったって、スコットの様子は手に取るように分かる。  汚れたツナギの袖を腰元で縛り、Tシャツの袖をまくり上げ逞しい二の腕をむき出しにしているんだろう。オイルで汚れた顔には薄い色の無精ひげを生やし、何とも言えない優しげな笑顔を浮かべているのだ。  仕事は無骨だが、スレンダーな身体とナイーブな端正さを持ち合わせた顔つきのギャップに参る女は数多い。  高校時代は将来を嘱望された花形クォーターバックだった。  それが実業団に選出されてすぐ、膝を悪くして引退を余儀なくされた。  彼はそれから猛勉強して、やっと自動車修理工の職を得た。貧しい小さな町だから、スポーツに全てを費やしていたスコットには、それぐらいしかまともな職につけなかったのだ。  それでも一人で暮らすには十分な稼ぎだったろう。自分の好きなことに金を費やすこともできたし、容姿もよく穏やかな性格なので、望めば既に幸せな結婚していてもおかしくはなかったはずだ。  それなのにスコットは、身寄りを一人残らず失ったショーンを引き取った。そればかりか、ショーンにくっついてきた借金でさえも背負い込んだ。そして彼の生活全てを、ショーンの為に捧げた。  その愛情が嬉しくないといったら、勿論嘘になる。だが、時々それが重荷になることだってある・・・・。  恩着せがましいことを一度も言わないスコット。  汚い感情を見せた試しがないスコットが、やけに遠い存在に思えてしまうことが最近多かった。  一番身近にいるのに、その存在感は途轍もなく遠い。  自分の歪んだ愛情が、彼を汚してしまうような気がして、やたらに切ない・・・。  昨夜見つかった雑誌は、引き金を引いてしまった。  もはや誤魔化すことのできない自分の感情を、あからさまに暴いてしまった。  ショーンがベッドの上にぶちまけたのは、同級生達がぶちまけたのとは全く違う、世界で最も純粋で一筋縄ではいかないエゴそのものだった。
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