act.10

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act.10

[11]  翌朝、スコットがゆっくりと目を覚ますと、部屋にはショーンもクリスもいなかった。  デビッドに殴られた傷と久々のセックスに痛む身体をベッドの上に起こすと、アッパーシーツの上に真新しいバスローブが置かれてあった。バスローブの上にはクリスのものと思えるメモ書きが置かれている。『バスルーム、キッチンともにご自由にお使いください。料金は後ほど、こちらの方からご請求いたします』と書かれてある。  スコットは少し顔を顰めてメモを手に取ると、紙が透けて裏にも文字が書かれてあることに気が付いた。ひっくり返すとこう書かれてある。 『なお、昨夜は大変結構なものをいただきました。よって、今回のサービスについては大幅な割引をいたしますが、今後の支払方法もあのような形をお望みならば、ぜひともそのように対応したいと思います』  さすがにスコットはプッと吹き出した。  まったく、食えない男だ。優しいのか優しくないのかよく分からない。  スコットはバスローブを羽織って、ベッドを降りた。  バスルームに入る前に、ショーンの姿を探そうとして寝室を出る。  リビングにもキッチンにも人の気配はなかった。  ただキッチンのシンクには、皿が四枚とマグカップが二つ転がっていて、朝ご飯を食べた形跡がある。  スコットは、いつもの癖で汚れた皿を洗い上げると、再びリビングに取って返した。  リビングのテーブルの上に、今度はショーンの書き置きが置いてある。  『学校に行って来ます。晩ご飯は、ミートローフとホットドッグが食べたい。クリスの作るホットドッグはまずい』と書いてある。  それを読んでスコットは呆れたように目を見開く。  まったく、クリスといいショーンといい・・・。  でもやはりおかしく思えて、スコットは笑った。  こんなに自然に笑顔を浮かべたのは、随分久しぶりのような気がした。  シャワーを浴びてさっぱりした後、スコットはクリスの姿を探して劇場に向かった。  やはりどうしてもクリスの顔を直接見てお礼を言っておきたかった。  これから先どうなろうと、それでもこんなに穏やかな朝を迎えることができたのは、クリスのお陰だと思ったからだった。  やはりクリスは、リハーサル中の劇場内にいた。  クリスは著名な劇団の座長と話し込んでいたが、戸口にスコットの姿を見かけると階段を上がってきて、いつもと変わらない様子でスコットのところまで歩いてきた。 「痛むところはないか?」  そう声を掛けられ、スコットは肩を竦める。 「大丈夫だよ。こんな遅い時間までベッドを占領してすまない」  そう言うと、スコットの真似をして今度はクリスが肩を竦めた。 「それで・・・」  スコットが少し言い淀むと、クリスはその先を察して答えてくれた。 「お宅の息子さんは随分さっぱりした顔で学校に行かれました」  クリスは、舞台を見つめる座長に少し視線をやると、こう続ける。 「本音を言えば、今晩の舞台に上がってもらうためにリハーサルにも参加してもらいたかったんだが、ヤツに言わせるときちんとやるべきこともできないのに、舞台になんか立ってもろくなことができないとさ。── まったく、ズブの素人がいっちょ前にプロの言うようなことを口にする。ホント、不思議な野郎だ」  クリスの言ったことに、スコットは純粋に驚いた。 「舞台に上がるって・・・、この公演に出演するってことか?」  クリスはスコットの驚きが面白いのか、ニヤリと笑う。 「あいつの才能を伸ばしてやりたいって言ったのは、お前さんの方だろ。さては、ショーンのギターや歌声を聞いたことがないな」  スコットは唇を噛みしめる。 「そりゃ、小さい頃はよく聴いてたさ・・・。けれど、ここ数年間はまるでそんな姿を見てない。お前に相談したのは事実だけど、いきなりああいう大舞台に立てるほどなんて・・・。そんなに上手いのか?」  スコットがゴクリと喉を鳴らす。  その目は、まるで授業参観に来ている親の目そのものだ。  自分の子どもが先生に誉められるかどうか、躍起になって見つめている時のような。  やはりスコットは、どこまで行ってもショーンの父親なんだということを実感して、クリスは何だか今更ながら改めてショーンに同情した。 「聴けばきっと目が覚めて眠れなくなるぜ」  クリスがそう言うと、スコットは心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「・・・そうか・・・。そうか・・・」  スコットは、ショーンが自分の知らない間にもずっと音楽を忘れないでいることが純粋に嬉しかったのだろう。  クリスはスコットの喜ぶ顔を見て、少し切なくなってしまう。  クリスは腕組みをして、再び舞台に目を遣りながら呟いた。 「けれどもうショーンがこの公演に参加するチャンスはないだろうな・・・」 「え?」  今度はスコットがクリスを見る。  クリスは、ステージに視線をやったまま続けた。 「残念ながら、公演は今夜のでラストだ。明日には別の街に移る。ショーンだって、そのことは知っていたはずだ。なんだかんだ言いながら、やっぱり舞台に立つのが怖いんだろう。あいつの心の中にあるビル・タウンゼントに対するトラウマは案外根深いのかもな」  それを黙って聞いていたスコットが、すっと俯いたのが分かった。しばらくして彼は、スンと小さく鼻を鳴らした。  ショーンが数日振りに学校に行くと、彼は真っ先に担任の女教師に捕まえられ、校長室に連れて行かれた。  学校の中心にある校長室は、校内の他のどの部屋とも雰囲気が違っていて、マホガニーのチェストや本棚が並ぶ威厳ある雰囲気をしていた。  その部屋の主である校長は、アフリカン系アメリカ人の老婦人で、恰幅の言い体格といつも冷静で表情の変化をあまり見せない面差しが生徒達に威圧感を感じさせる人だった。  校長室に呼び出された生徒は、校長室の前のカウチで呼び出される順番を待つ間、びっしりと全身汗を掻くのが常だ。だがショーンの場合は、授業が始まる時間帯にもかかわらず呼び出されたので、汗を掻く隙もなく、すぐさま校長室に招き入れられた。  彼女は校長室に入ってきたショーンを、眼鏡をずらしながらじっと見つめると、穏やかな声で「お座りなさい」と目の前の椅子を指し示した。  ショーンは大人しく言うことをきいた。 「あなたの身の回りでどんなことが起きたのか、すべて聞いていますよ」  彼女は、戸口に立つ担任教師と視線を合わせながらそう言った。  その台詞には、町中で噂になっているスコットが起こした騒ぎのことや、ショーンがデビッドを銃で脅して家から追い出したことも示唆しているように思えた。  校長は手を組み合わせてデスクの上に肘をつくと、真っ直ぐショーンと向き合った。  ショーンは内心心臓に脂汗を掻く心境で、恐る恐る校長を見た。 「そして、あなたが数日前学校を飛び出す以前に同級生に対して暴力を振るったことも聞きました」  ショーンは自分の握りしめている拳の内側に、じっとりと汗が滲んでくるのが分かった。  校内暴力の上に無断欠席だ。今まで傷一つなかったショーンの内申書に、今回つくのはどんな「処分」なのか・・・。  ショーンが学校に戻ったのは、クリスが推測したように、あの舞台に立つのが怖いという気持ちがあったからだ。  いくらクリスやジョンにギターの腕前や歌声を評価されたとはいえ、今まで人前で歌ってきたことのない自分が、大勢を前にして勇気を振り絞れるかどうかが純粋に怖かった。  スコットには悪いが、町中の人々から白い目で見られるのは必至だし、初めて人前で歌った結果受け入れられなかった時のショックを思えば、足が震える。  だから、学校に戻ったことを言い訳にしたというのは事実である。  けれど、こうすることでスコットを安心させてやりたい気持ちも一方であった。  この一件で自分が不登校にでもなれば、スコットは絶対に彼自身を責める。  これからスコットは、彼自身に降りかかってくる沢山の問題に立ち向かうことで精一杯になるはずだ。だから自分のことでいらぬ心配はかけたくなかった。  けれど今ここで「処分」を食らえば、逆効果になってしまいかねない。  ── 自分の選択は間違いだったかもしれない・・・。  ショーンの口の中に溢れる唾液が、いやに苦く感じる。  ショーンは低く項垂れるように、俯いた。  その茜色の頭に、校長の穏やかな声が降ってくる。 「あなたの気持ちはよく分かりますよ。謂われのない差別に抵抗したいという気持ちは」  ショーンはハッとして顔を上げた。  校長は席を立つと、チェストの上に置いてある古めかしいデザインの魔法瓶を手に取ると、ショーンの目の前に小振りのカップを置き、湯気をたてるコーヒーをゆっくりと注いだ。 「この町ではあまり言われることはなくなったけれど、三十年ほど前の私の生まれた土地では、それはもう酷かった。理不尽な差別という暴力が」  ショーンが怪訝に思って顔を顰めると、校長は再び椅子に座ってショーンを見つめた。柔らかな瞳の色をしていた。 「人種差別が今回の件と一概に一致するとは言えないでしょうが、大衆は誰かが『異質』と思ったものに対して過剰な防衛本能を取ろうとするものです。時としてそれは、人間としてとても愚かな行為に追い込んでしまうこともある。人はそういう負の歴史を繰り返してきたのに、残念ながらそれを教訓として活かせる人間はとても少ないの」  校長はそう言いながら、ショーンにコーヒーを勧める。ショーンは上目遣いで校長と担任の顔色を窺いながら、コーヒーに口をつけた。何だか、ようやくほっと身体の力が抜ける。 「ショーン・クーパー。幸いあなたは、とても頭がいい子です」  ショーンは二、三回瞬きをして校長を見た。  校長は続ける。 「私は何も学問の成績のことだけを言っているのではありませんよ。あなたの幼い頃からの生い立ちを思えば、よくこうして今まで頑張ってきたと思う。困難を生き抜く力を、主はあなたにお与えくださった。きっと今回のことも、神様があなたを試していらっしゃるのでしょう。けれど・・・」  校長はそこでひとつ溜め息をつくと、腕組みをした。 「暴力はいけません。例え相手が汚らしい言葉をかけてきても、その挑発にのって暴力を振るうのは愚かな人間のすることです。人はもっと素晴らしいやり方で人の心を動かすことができるということを学びなさい。キング牧師やガンジーの名は永遠に残っても、彼らの命を奪った人間の名が皆の心に残ることはないのですから」  ショーンは唇を噛みしめ、頷いた。  ショーンが教室に戻ると、数学の授業中だった教室が、ザワリと揺れた。 「座りなさい」  そう言われて、唯一空席になっている真ん中辺りの席に向かう間、無遠慮な視線を次々と浴びることになった。  途中足を引っかけられて転び、小さな声で「オカマの子」と罵られた。  顔を上げると、デニスの腰巾着であるトニーがニヤニヤと笑っていて、その向こうにそしらぬ顔つきをしたデニスがいた。  表情は努めて無表情を装っていたが、目元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。 「こら! やめないか!」  教師が神経質な声を上げると、「勝手に転んだだけですよ、なぁ」とトニーが声をかけてきた。ショーンは黙って立ち上がると、「ちょっと引っかかっただけです」と言って席に着いた。  ショーンに恋心を抱いていたはずのジェーンや親友のポールも心配げな瞳をしてショーンのことを見ていたが、いざショーンと目が合うと気まずそうに視線を外した。  ── まぁ、しかたがないさ。  ある程度は覚悟していたことだ。  彼らが自分にかかわって一緒に苛められることになるのは気の毒だ。  これくらい、スコットの苦しみに比べればどうってことない。  ショーンはクスクスとどこかで沸き起こる笑い声を脳裏からシャットアウトしながらも、さっき校長に言われたことを思い起こした。  ── 人はもっと素晴らしいやり方で人の心を動かすことができる・・・。  果たして、この状況でそんなことが可能なのだろうか。  今まで受けてきたどんな難しいテスト問題よりも、難解に感じた。  ショーンに対するイジメは、昼休みに入っても続いた。  カフェテリアに誘うべきかどうかポールは悩んでいるようだったが、余計な気を使わせるのも悪い気がしたので、一人でさっさとカフェテリアに向かった。  昼休みのカフェテリアは、校内で一番賑やかな場所になる。  友達とのおしゃべりを楽しみながらランチを頬張る生徒や、自作のラップを披露し合う生徒、アコースティックギターを持ち込んで自慢の歌声を披露する伊達男もいる。  そんな騒がしい音でいっぱいのカフェテリアだったが、ショーンが一歩中にはいると、一瞬シーンと静まり返った。  好奇の目を向ける者、どう対処していいか分からず視線を外す者、無視を決め込む者。姿のいいショーンをからかって「かわいこちゃん」と口笛を吹く者もいる。  学校の中にいる生徒の大半が集まってくるカフェテリアだ。反応は様々だった。  ショーンは敢えてその中に入っていった。  別に自分は疚しいことをしていないし、スコットを恥ずかしいと思ってもいない。自分を卑下する理由は何もない。  カフェテリアの入口でチケットを買って、カウンターに並ぶ。  日替わりのランチメニューがのせられたトレイを持って、カフェテリアの真ん中にある六人掛けのテーブルの端っこに座った。反対側の端っこに腰掛けていた男子生徒二人が、さり気なく席を立つ。  ショーンは目だけでそれを追う。  その視線の先に、まるで泣きそうな顔をしたポールがショーンを見ていた。  ショーンは何も言わず視線を戻すと、黙って食事を始めた。  それを合図に、再び騒がしいカフェテリアが戻ってくる。  ショーンがフォークでスクランブルエッグ掬って口に入れようとした時、突如目の前のトレイが手で払われて、床にぶちまけられた。  ショーンはフォークを握った格好のまま、顔を上げる。  デニスが引き連れる一団が、ショーンの足を引っかけた時と同じニヤニヤ顔でショーンを囲っていた。  ── 全く・・・マメだな・・・。  ショーンは呆れ返って溜め息をついた。  カフェテリアは再び痛いほどの静寂に包まれている。 「おい、オカマの子」  デニスがショーンの向かいの席に座る。 「よくもまぁ学校に来られたものだな。恥ずかしくないのか?」 「・・・何が恥ずかしいんだ」  ショーンがそう返すと、周囲から笑いが起こった。 「お前、わからないのか? 俺なら恥ずかし過ぎて生きていられないね。俺のパパがオカマだったら」  デニスがそう言って大笑いする。  ショーンは無表情のまま、「確かにお前の親父がオカマだったら、気色悪る過ぎて生きてはいられないだろうな」と答えた。  デニスの父親はブルドックのような顔をした警察署長だ。  デニスや周囲の人間の笑い顔が引きつる。誰もが厳つい警察署長の女装姿でも思い浮かべたのだろう。  カフェテリアの中に、クスクスと笑い声が沸き上がった。  デニスは顔を赤くすると、忌々しそうに唇を尖らせて歯茎を見せた。 「年下の癖に生意気な口を利きやがって。ただでさえ昔から鼻についてたんだ」 「今まで手も足も出さなかった癖に。俺の周りから人がいなくなった途端にこれか。現金なものだな。そっちこそ、タマがついてないんじゃないのか?」  今度こそ目に見えてデニスの顔が真っ赤になった。  デニスは立ち上がって怒鳴り声を上げる。 「何だと! オカマの子のくせに! お前だってとっくに、あの青い目のにやけた顔した親父にヤラれたんじゃないのか! そうだ、きっとそうだよ。お前の親父がお前を借金ごと引き取ったのも、自分の思い通りになる“穴”が欲しかったんだ。だからお前を引き取ったのさ!」  デニスのその台詞に、ここまで我慢していたショーンも立ち上がった。一気に頭に向かって血が昇り、左手に握りしめたフォークがブルブルと震えた。  自分のことをいくらバカにされても気にならなかった。  けれど。  スコットのことを言われるのは別だ。  これまで、どんな思いをしてスコットが自分を育ててくれたか。  例えこの世から消えてしまった想い人の忘れ形見だったとはいえ、あれほど苦労をしてくれた人だ。そのスコットを汚い言葉で汚されるのは我慢ならなかった。  ショーンは持っていたフォークを胸元まで上げる。それを見たデニスが、卑屈な笑みを浮かべた。 「お? やるのか? いいぜ。やれよ。そしたら傷害罪でパパに訴えてやる。お前のことだ。刑務所に入ったら、思う存分可愛がってくれる兄弟ができるぜ」  ショーンはギリギリと奥歯を噛みしめた。  目の前の憎しみと校長に言われた言葉がグルグルと交錯した。 「何だよ? やる気ないのか? まぁ、オカマに育てられたんだから、仕方がないか」  デニスの一団にハハハと笑われる。だが、その周囲は余りにも汚いデニスの罵りに閉口した顔つきをしていた。  怒りに負けてショーンがフォークを振り上げた時、「ショーン!」とポールがショーンの名を呼んだ。  ハッとしてショーンはポールを見る。  目に涙を溜めたポールの向こうに、ギターを抱える男子生徒の姿が見えた。彼の持つギターはアコースティックで、ごく普通の学生でも手に入る安いギターだったが、それでもショーンにはそのギターが輝いて見えた。  ショーンはデニスをひと睨みしてフォークをテーブルの上に置くと、ギターに向かってツカツカと歩み寄り、「少し借りるけど、いい?」と訊いた。男子生徒は、呆然とした顔つきで、ショーンにギターを渡した。ショーンはギターを肩に掛ける。 「ショーン?」  涙を拭いながらポールが、怪訝そうな顔つきでショーンを見る。  今まで音楽音痴とばかり思っていたショーンが、慣れた手つきでギターを扱うのが不思議だったのだろう。  それはカフェテリアにいるどの生徒も同じで、成績優秀なショーンが今まで唯一音楽だけは落第点を食らっていることは、全校生徒の中でも有名だった。  ショーンは側の空いているテーブルの上に立ち、弦に挟まれていたピックを取る。そして息を大きく吐き出しながら首をぐるっと回して、肩の力を抜いた。  その様子を、デニスもしばし呆気に取られて見つめていたが、やがてショーンに再び睨まれると、顔を醜く歪ませた。 「おいおい、何だよ。酷い歌声で反撃か?」  デニスが卑屈な笑みを浮かべた瞬間、穏やかなギターの音色と共に、ショーンの口から瑞々しい歌声が零れ出た。 「All You Need is Love ・・・」 『愛こそすべて』  ザ・ビートルズの名曲だった。  現代の若者でも口ずさむことのできるこの曲の印象的なサビのパートが、素朴なギターの調べにのってショーンの口から次々と溢れ出してくる。  その何と優しげな歌声か。  カフェテリアの中にいる全ての人間が、口をポカンと開けてショーンを見た。  そして次の瞬間には微笑みを浮かべて、ショーンの歌声に聴き入った。  まるで癇癪を起こした幼子に囁きかけるような、澄んだ歌声。  伸びのいいソフトな歌声は既に熟成していて、聴く者の胸にじんわりと染み込んでくる。  ジョン・レノンが書き下ろしたメッセージソングに、ショーンの歌声はよくあっていた。  その歌詞は、理不尽な暴力に対抗できるだけの強さと優しさを内包している。  そもそもショーンの名前も、ショーンの本当の父親がジョンの大ファンで、彼の息子と同じ名前をということで名付けられたものだ。  ショーンが歌い終わると、歓声が沸き起こった。  皆、自分がしていたことの手を止め、夢中で拍手していた。  デニスは、いまだにショーンの歌声が信じられないような顔つきをしている。まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔つきだ。  ショーンはそんなデニスを見て、ニヤリと笑みを浮かべる。今までの穏やかな顔が一転した、ワイルドで男臭い表情。  ショーンはギターを抱えたまま長いテーブルを走ると、隣の机に飛び移りデニスの目の前に立った。そうしてデニスをテーブルの上から見下ろす。ポカンと口を開けたままのデニスに向かって、激しくギターを鳴らし始める。  このイントロは、ザ・ローリングストーンズの『Paint It Black(黒くぬれ!)』だ。  反抗的で攻撃的なギターの音。  アコースティックとは思えないほどの迫力がある。  ショーンは、先程とはうって変わって獰猛で唸るような歌声でデニスに迫る。  まるで声の拳でデニスを叩きのめしているような勢いだ。  今やデニスはショーンの完璧な歌声と鬼気迫る気迫に、完全に押されていた。  ショーンは激しく踵でテーブルを打ち鳴らし、腰に来るような激しいギターを響かせる。  生徒達は歓声を上げ、おのおの立ち上がり、手拍子を送った。  歌詞が分かる者は共に歌い、ショーンのギターに合わせてジャンプしたり踊り出す者もいる。  こうなればもはや、ショーンをバカにするような者はここに一人もいなかった。  三曲目、イギー・ポップの『Real Wild Child (Wild One)』を歌い始める頃には、カフェテリアはちょっとしたライブハウスのような熱気に包まれていた。  ショーンの選曲は、スコットの影響もあって往年のロックファンが唸りを上げる名曲ばかりだったが、それだけに重みと迫力があった。近年の、ロックがファッションになってしまった時代の曲とは違い、狂気と歓喜が紙一重の骨太な曲ばかりだ。  カフェテリアの騒ぎを聞きつけて、教師達が集まってくる。  神経質な顔つきをした女性教師が止めに入ろうとしたところを、それを静止する手があった。  女性教師が振り返ると、そこには校長が立っていた。  彼女は、普段見せたことのない柔らかな顔つきでカフェテリアを覗き込み、足でリズムを取った。  ポールも同様に飛び上がって大声を上げていた。  最初は驚き、次は複雑な想いにかられた顔つきをしていたが、ショーンの並々ならぬ才能を目の当たりにして、抑えることなどできなかったに違いない。  例え彼自身の歌声がいまいちでも、ポールの音楽を見極めるセンスはピカイチだった。  ショーンが、あのショーンがこんなに素晴らしい、魂の底から沸き上がってくるような音楽の才能を持っているだなんて。  あまりにも意外過ぎて、ポールは本当に驚いていた。けれどそれは嬉しい喜びに違いなかった。  それはショーン自身も同様だ。  人前で、こんなに堂々と歌えるとは思ってもみなかった。そして、皆がこんなにも自分のギターと歌声に歓声を上げてくれるとは。  今まで感じたことのない快感が、ゾクリゾクリと背筋を這い上がる。  こういっては何だが、ある意味、昨夜スコットとクリス三人で迎えた初めての夜と同じぐらいに気持ちがいい。  ショーンはこの世に音楽があることを感謝した。  そして音楽が、こんなにも人の心を動かすことができるのだということを感謝した。  やはり自分の血管には、“音楽”という血液が勢いよく流れ、身体の隅々まで行き渡っているらしい。  いくら本当の父親を否定して、自分の中の欲求を押し殺して生きてきたとしても、本能がそれを許さないのだ。  ── いいじゃないか、それで。それが俺の魂の場所なんだ。  ショーンは、今まで否定してきた全てを取り戻すために、最後にこの一曲を選んだ。  その曲は歯切れのいいイントロのリフだけで、何の曲かはっきりと分かった。  サビの部分は余りにも有名で、皆がショーンの歌声に合わせて、まるでデニスを追いつめるように大合唱を始める。  その熱狂的な雰囲気に圧され、デニス達はすっかり腰を抜かしてしまった。  往年のロックキッズだった男性教師までもが大声で歌っていた。  「I Love Rock and Roll !!!!!」と。
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