1話

1/1
226人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

1話

 自分の家ではないと気づいたときには、もう遅かった。  このとき、お酒を呑みすぎないことを誓った瞬間だった。  大学進学を機にひとり暮らしをはじめたアパートは、就職してからも更新を続けて住んでいた。正直なところ、引っ越しをするのも面倒で、ひとり暮らしをはじめてから気づけば十年以上は経っている。  夢中になる趣味もなければ、仕事に追われる毎日。  あっという間に三十路も過ぎた。  残念なことに、出会いにも恵まれない。  むしろ、悲しいことに仕事が恋人のようなものだ。 「はぁ……」 「なんだ、ため息ついて。幸せ逃げるぞ?」  ――幸せ?  そんなのとっくに逃げてる――なんて、話しかけてきた同僚の彼に向かって胸中で吐き捨てる。  なにも言い返してこないのをいいことに、彼はやれやれといった感じで苦笑しながら、「仕事終わったら、呑みに行こうぜ」と誘ってきた。予定の確認をしていない挙句、こっちはまだ返事もしていないというのに、「またあとでな」と言うだけ言った彼は自分の席へと戻っていった。  予定の確認をしなくとも、本当は予定なんてない。  それを彼はわかっているのだ。  それに、本当に駄目なときは、「無理だ」と即答している。 (とはいえ、いつも勝手だな)  心の中で悪態をつく。  だが、そんなことを思っていても、なんだかんだで面倒見のいい彼だ。  それは、入社してきたときから変わらないなと思いながら業務に勤しみ、慣れた手つきで業務を難なく終えた。  定時になると同時に、彼に連れられて駅近くの焼き鳥居酒屋に入る。適当に焼き鳥の盛り合わせと生ビールを注文して、先にきた生ビールで「お疲れ」と乾杯した。  仕事あとの一杯。お酒は美味しく感じるのに、なんだか気分が乗らない。 「仕事からも解放されて、美味しいお酒も呑んでるっつーのに、なに暗い顔してんだよ」 「うるさいな……」 「そんなんだから、いつまでも恋人ができないんだって」  痛いところを突いてくる。  わかっているからこそ悔しい。 「それ以前に出会いがない」 「そういった場所に行けばいいだろ?」 「疲れて行く気力すらない」  そもそも、仕事で顔はやつれており、目の下には薄ら隈ができている。しっかり睡眠を取っても疲れが取れない。かっこいいとも可愛いとも言えない、中肉中背でどこにでもいるような平凡。美容室に行く気力すらなく、おかしくない程度に自分で切り揃えている髪の毛。栄養が偏っているのか、艶が死んでいる黒髪はパサつき気味だ。 「だいたい、相手にするわけないだろ。こんなおっさん」 「おっさん、おっさん言うなよ。年齢的にまだまだいけるって。それに、俺も同い年ってこと忘れるな」 「そんなこと言ったって、俺は自分に自信がない。一生、ひとりなんだ」  言われることに対して、ことごとく否定的な言葉を返せば、彼は「お前な……」とため息をつかれた。  そりゃ、呆れられるはずだ。  学生時代に同性への恋心を自覚してしまってからは、内にずっと秘めてきた。同性を好きになっても告白をすることはせず、ただ黙ってジッと待っているだけ。  それに、例え出会いがあっても、待っているだけでは恋人なんてできないのはわかっている。待って恋人ができるなんて、恋人にしたいと思われない限りごく僅かだ。  同性に告白されたことすらないが。  目の前にいる彼も〝そういった〟仲間ではあるが、ただ違うことは彼にはきちんと恋人がいる。  彼には、入社してからしばらくして、ストレートに「お前、もしかして同性が恋愛対象?」と訊いてきたのだ。  普通、そこは様子を窺いつつ尋ねてくるものではないだろうか。あまりのストレートな問いに、当時は驚くことしかできなかった。  同族はなんとなくわかると、意味不明かつ失礼すぎる彼だったが、お互い同族とわかってからは仕事以外のプライベートでも付き合ってくれる。 (……いや、今日は、俺が勝手に付き合わされてるんだけどな)  こんな自分を心配してくれるのは嬉しい。  しかし、三十路を過ぎてしまっている今、このまま死ぬまで仕事だけの生活でもいいのかなと、半ば諦め気味になっているのは確かだ。  周囲の同年代を見れば、二十代とは違う輝きを持っている人もいれば、自分と同じようにくたびれたスーツを着て変哲もない毎日を過ごしている人もいる。  目の前の彼は前者で、明らかに自分は後者の人間だ。 「せめてさ、セフレのひとりくらい作ればいいじゃん。恋人を作るのは無理でも、ひと晩だけ恋人気分を味わう、みたいな」 「それは嫌だ」 「即答かよ。はぁ……だから、いつまでも魔法使いなんだよ」 「魔法、使い? なんだそれ」 「童貞ってこと。ま、お前の場合、童貞処女だけどな」 「どっ……!」 「んで、童貞のまま四十を迎えると天使なんだってさ。ま、諸説あるみたいだけど」  失礼なことを言う。  でも、悔しいことに本当のことだ。 「あのさ、新しい環境にしてみるとかどうよ」 「新しい環境……」 「今のアパート、十年以上住んでるだろ? 費用のこともあるから、最終的に決めるのはお前だけど……新しい場所に引っ越してさ、新しい人生はじめてみるのもいいと思うぜ」 「んー……」 「どうせ、物件探しや引っ越しするの面倒とか思ってんだろ。物件探しも、引っ越しするなら片づけも手伝うし」  今のままでいいのかよ、と言われると、正直グサッとくる。  仮に引っ越しをして新しい環境で生活したとしても、毎日の仕事は変わらない。  それに、三十路を過ぎている自分には恋人とも無縁だろう。――なんて思いつつも、本当は心のどこかでは恋人に憧れをいつまでも抱いているのに。  なにもしなければ、一生このまま。  だが、「する」「しない」関係なく、変わりたいと少しでも思うのであれば思い切って行動するしかないのだ。  会社の最寄り駅から二駅。そこから徒歩十分ほどにある、五階建てのマンションへ引っ越しをした。周辺にはスーパーやコンビニもあり、それなりに環境はよさそうだ。  面倒だと思っていたのに、思い切ったなと自分自身でも思う。  この新しい環境が、これからの人生をどう左右するのかは今後の自分次第だろう。 「色々と、ありがとなー」 「いや、俺はただ提案しただけで……と、言いたいところなんだが……」  約束通り、提案をしてきた彼はきちんと引っ越しの手伝いをしてくれた挙句、新しい門出の祝いにと、行きつけの焼き鳥居酒屋で奢ってくれた。  お陰で、酌み交わしていい感じに出来上がってしまった。 「俺が奢ると確かに言った。……言ったが、本気でたくさん呑むやつがいるか。顔、赤いぞ」 「んあー? らって、お前が呑んでいいぞーって……ひっ、く……」 「あーあー、俺が悪かった。ほら、タクシーで一緒に家まで送ってやるから。これ以上は呑むな」 「あっ」  まだお酒が入っているグラスを取り上げられた。  ボーっとしているうちに会計は済まされ、彼に肩を組まれる。ふらふらと、覚束ない足取りで店が手配してくれたタクシーに乗り込んだ。彼が運転手に行き先を告げてくれたのか、タクシーはいつの間にか目的地であるマンションへと辿り着いた。 「おい、マンション着いたぞ」 「んー」 「大丈夫か?」  身体を揺さぶられ、起こされる。 「タクシーの中で少し休んだんだ。多少はマシになっただろ」 「あ、ああ……たぶん……」 「多分って……お前なぁ」  呆れる彼を無視して、荷物を持って外へ出る。ひんやりとした風が頬を撫でた。  もう春だというのに、それでも日中との気温差は激しい。  だけど、心地いい。 「気をつけて歩けよ」  背中から彼の声が届く。  振り向けば、タクシーの窓を開けて手を振っていた。 「んー、わかってる……」 「本当かよ」 「ほんと、ほんと。今日はありがとな」 「そう言うならいいけど……また月曜、会社で」  彼を乗せてゆっくりと走り出すタクシーを、見えなくなるまで見送った。  まだ完全に醒めきってはいないが、足取りは先程よりも悪くない気がすると思いながらマンションのエントランスを(くぐ)り、エレベーターで自分の住んでいる階へと向かった。少しふらつきながら家の前まで行くと、鞄の中から鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。 「……あれ?」  鍵を差し込もうとするが、なかなか入ってくれない。自分の家を間違えただろうかとも考えたが、エレベーターは住んでいる階を押したはず。自信はないけれども。それとも、家の鍵を他の鍵と間違えただろうかと確認してみるも合っていた。  お酒のせいでまともな判断ができない中、とりあえずドアノブを回してみた。 「? 開いた……」  なにかの錯覚だったのだろうか。 「ぼけてんのかな」  なんて言ってみる。  なにはともあれ、無事に玄関が開いたのでそのまま中へと入った。  この時点で気づけばよかったのだ。家に入ってから空気が違うことに。 「んー……俺の家だよな……って、うわっ」  廊下の先にあるリビングのドアを開ければ、驚いてこちらを見ている男と目が合った。  男の存在に、こっちまで驚いて目を見開く。 「……お前、誰だ」  怪訝そうな顔で見られて一瞬怯みそうになるが、なんとか男に言い返した。 「え、あ、お前こそ誰だよ。ここ、俺の家だぞー」 「は? お前、頭大丈夫か? ここは俺の家だ。なに勝手に入ってきて自分の家だと言うんだ」 「なっ……!」 「だいたい、入った時点でわかるだろ。そもそも、家具もお前の家にあるのと違うだろうが」  ソファに脚を組んで座っている男は立ち上がり、近寄って追い出そうとする。  思わず、必死になって抵抗した。 「俺の家だ! お前が勝手に入ってきたんだろー!」  自分より身長の高い男にしがみつく。 「うわ、酒くさ……」  男は困惑し、大きなため息をついた。 「玄関の鍵、開けっ放しにしてたのは俺が悪かった。お前、自分の部屋を間違えているだけだ。何号室だ? 不法侵入で警察には連絡されないだけマシだと思え、この酔っ払いが」 「ちがう。ちがうもん。よっぱらいじゃ、ない」 「っくそ……いい年した男が、子供みたいに駄々をこねるな」  目の前には、ジーンズに白いシャツというラフな格好で男が説得しようとしてくる。話を聞くこともなく、ジッと男の顔をよく見る。すっきりとした高い鼻、動物に例えるならば狐のような切れ目。顔のパーツ、ひとつ、ひとつが均等に取れているようで、とても端整な顔立ちをしている。きちんと手入れされているマッシュショートの黒髪はパサついている自分とは真逆で艶があり、家の中であろうと無造作ではあるが整えてあった。  酔った頭でも、男の綺麗さがわかってしまう。  ――ムカつく。 「俺がもう少し若ければ、あんたみたいな男にアプローチしてたかもなぁ……」  自ら積極的に行動することなんてできないくせに、口ではそう言ってみる。  すると、男は「ふーん」と言いながら、下から上まで舐めるように見てきた。 「……あんた、いくつだよ」 「三十過ぎたおっさんだよ。悪いか」 「いや、まだ悪いとも言ってないだろ。……なあ、お前、もしかして男が好きなのか?」  耳元で囁かれ、身体が震えた。  これまで誰とも付き合ったことがなければ、身体を重ねる経験もない。自慰は虚しいくらい、数えるほどやってきた。免疫がないお陰で、たった小さなことでも身体が反応する。 「こういう経験はじめてか?」 「……っ、悪いか」  睨みつけるも、男には無意味なようだ。  にやにやさせながら、再び耳元で囁かれる。 「ふーん。三十過ぎたおっさんでも、可愛いとこあるじゃん」 「ば、ばかにするな!」  男から距離を取ろうとしたが、簡単に腕を掴まれてしまった。 「……なんだよ」 「自分でおっさん言うわりには、さっきから可愛い言動してるなと思ってよ」 「うるさい」 「ま、酔っ払いには、これが一番手っ取り早いだろ」 「うわっ、な、なにを……!?」  掴まれている腕を引っ張られ無理矢理に連れてこられた部屋は、ドアを開ければ目の前に広がる大きなベッドがあった。クイーンもしくはキングサイズだろうかと安易に考えていると、次の瞬間には柔らかいものが身体に当たった。 「へ……」 「自分の家だと思って、間違えて入り込んだお前が悪い」  そう言いながらギシと音を立てて覆い被さってくる男に、いつの間にかベッドに放り投げられたことに気づく。酔いが醒める、醒めない関係なく、動けるうちに逃げなくては――と思っていても身体は動かない。  むしろ、この状況で胸が高鳴ってしまっている自分がいる。  それに、仄かに身体が火照っているのはお酒のせいなのか、それとも男に組み敷かれたせいなのか。  もう、なんだかわからなくなってきた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!