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晩刻。外は激烈な雨が降り注いでいる。それを傍目に夕飯を終え、片付けも風呂も済まして。幸と買ったばかりのゲームをプレイしているなか、あることを思い出した。
「ねえ、ここにバナナの皮置いたの幸也でしょう。性格が悪いわ」
「そんな見え透いたトラップに引っ掛かるなよ…。幸、ちょっといいか」
「何かしら」
「明日から大学始まるから――っておい、今の赤い甲羅飛ばしたの幸だろ」
「何のことかわからないわ」
「お前……いや、いいわ…。ついでにバイトもないから帰ってくるのは早いと思う」
「そう」
「そこでだ。幸に頼みがある」
「? 何?」
× × ×
あまりにも心地よい春の気候のなか、目が覚めると小鳥の囀りが耳へと届く。そういえば昨夜は記録的な豪雨がここらを襲っていったし、近所の公園に咲く勿忘草や桃も散ってしまっただろうか。ぼんやりした意識のなか、孟浩然かよと独り言ちる。
「やっと起きたのね」
そんな俺に、幸は怒っているのと呆れているのと半々くらいの表情を向けていた。
「おはよう、幸」
「もうお昼になるのよ」
「じゃあこんにちはだな」
「……幸也の馬鹿」
「なんで朝からちょっと怒ってんのお前」
言ってから気付いた。というか、思い出した。春休みは昨日終わりを告げ、今日から再び大学へと足繁く通う日々が始まる。
必要以上に長い春休みによって、俺の生活リズムは壊滅的な被害を受けており、絶対に朝は起きられないことを悟る。そこで幸に朝起こしてくれと頼んだ。寝るのも起きるのも早い幸だから、目覚まし時計より確実だろうと踏んだ。しかしながらこの様である。なるほど、つまり。
「何度起こしてもびくともしない幸也なんて留年しちゃえばいいのよ」
「悪かったよ…」
どうにもここのところ、幸の機嫌を損ねてばかり。そのくせ特に何も起こらないし、いつか世の中のありとあらゆる災禍が我が身を襲うのではないかと若干不安だ。そっぽを向いたまま、幸は言う。
「学校は?」
行くのか行かないのか、という問いかけであることは明白。はっきり言って今から行ったところで講義も半分以上が終わっているし、何なら寝過ごした段階で行く気もない。
「めんどくさいから今日は休む」
それよりも、幸に構ったほうが幾分有意義に思える。そろそろ帳尻を合わせておかねば、いつ何が起こるかわかるまい。
「……じゃあ今日は一日暇なの?」
「そうだな」
応じると、幸はぱあっと頬を綻ばせた。割合ちょろいよなこいつ。感情が素直に表出するからわかりやすいし、可愛い奴である。
昼を過ぎていたこともあって、腹の虫も大仰に泣き喚く。夕飯から半日以上も経っていれば当然だろう。何かないかと冷蔵庫を漁ってみるもバターと焼肉のたれしかない。米もない、パンもない、野菜も肉もない。バターを舐るわけにも焼肉のたれを飲むわけにもいかないし、結果としては、である。
「買い物行くけどどうする?」
「行く!」
そんなこんな、幸を伴って最寄りのスーパーマーケットへ向かう。歩いて行けば二十分ほど。自転車をかっ飛ばせば十分もかからない距離だが、折角のいい天気でもあるし、散歩がてら徒歩で赴くのも一興だろう。普段はスーパーやコンビニで済ませるため、じっくり散策しないが、道中の店を眺めるのも意外と楽しい。
「今日はいい天気ね」
ふわり、ふわり。いつものワンピースをはためかせながら、数歩先を行く幸。ただ歩いているだけなのに、花が咲いたような笑顔を見せている。というのにも理由がある。
ここ最近、幸は外に出られるようになった。何をやってもあのワンルームから出られなかったのに。そもそも幸は人ではなく座敷童子。家に根付いていて当然で、根本的な座敷童子の在り方として外界との隔たりは然程苦にならない。幸もそう言って、明るく笑っていた。外の世界に対して執着があったわけでもなさそうだし、お互いに不思議だなあと首を傾げたものだ。
今のところ何か不都合があるわけでもないので、それほど気にかけているわけでもない。だけど、俺達も知らぬうちに何かしらの変化があったことは気に留めておいたほうがいいだろう。
「幸也、幸也」
「ん?」
「あれ、あれ食べたいわ」
「あれ? ……あー」
いつの間にか並んでいた幸にパーカーの裾をぐいと引っ張られ、指先が示すものを確認すると、インスタ映えしそうなソフトクリームが売ってある。引っ越してきた時はなかったから、新たに開店したのだろう。シーズン的には少し早い気もするが、空腹と温暖な気候も相まってやたら美味しそうに見える。お誂え向きと言わんばかりに、近場には公園もある。
「昼前だし、小さいのにしとけよ」
「! ありがとう!」
全身で喜びを表現しながら、駆けて行く幸。それを後ろからゆったりと追う俺。もはや父親のような心持ちである。
幸はチョコレート、俺は抹茶のソフトクリームを注文し、公園のベンチに座る。平日の午前中である。人気はないが、天気が良いから物寂しさはない。
「世の中には美味しいものがたくさんあるのね」
ソフトクリームを舐めながら、幸はそんなことを言った。基本的に甘いものを好み、苦いものを苦手とするあたり、本当に子どもっぽいなと思うが、喧嘩になるから口にはしない。同じ轍は踏まないのだ。
「幸也」
ふいに呼ばれて見やると、ちょうどソフトクリームを食べ終わったところのようで。というか食べるの早いなこいつ。こっちはまだ半分も進んでないんだが。
「私、新しい人が幸也で本当によかったわ」
微笑む幸に対して、沸き上がってきたのはシンプルな疑問だった。今日はいつにも増して脈絡がない。
「いきなりどうしたんだよ」
「一昨日で、きっかり一年経ったのよ」
「……俺が引っ越してきて、か?」
「そうよ」
もっと言えば、俺と幸が出会って、である。
「今までで一番長かった人でも一ヶ月と少しくらい。でも幸也は一年も一緒にいてくれたのよ」
「…、別に俺は」
「何もしてない、かしら」
「む…」
さすがにお見通しというわけだろうか。しかしながら、今の言葉に偽りはない。俺は特段気を遣ってこの一年を過ごしたわけではない。座敷童子の性質をある程度理解してはいるが、それを知りながら幸と喧嘩したり笑いあったりしている。それはもう、不自然なほど、普通に日々の生活を送っている。
「幸也、気付いてるでしょう?」
「何の話だよ」
「私がもとは人間だったってことよ」
「…………」
「図星みたいね」
「まあ……」
一年というのは長いようで短く、短いようで長い。日数にして三百六十五日。時間にしておよそ九千時間。大学やアルバイトなど、外出している時間を除いても、おそらくは大半を共に過ごしている。それだけの時間があれば、気付かないほうがおかしい。
最初に妙だと思ったのは服装が不自然なほど現代的だったこと。次に、集合住宅の一室に住み着いていること。民間伝承に倣うのであれば、座敷童子は旧家に住まうというのに。
そもそも座敷童子の起源は、間引きされた子どもの霊ではないかと言われている。他にも様々あるが、幸が人間だったのではないかという仮説は半年以上前からあったのだ。だけど俺はそれを話題にすることもなかったし、幸も何も言わなかった。
「幸也は優しいわね」
ころころと笑う幸。
笑っている。だけど真意がわからない。春の陽だまりのような温かな微笑みなのに、奥底には凍えるような何かが隠されている。その何かを、俺はまだ掴めないでいる。
「なあ、幸は――」
「そろそろ行きましょう。特売が終わっちゃうわ」
「……そうだな」
言葉の先を制される。詮索されたくないのか、気分が変わったのか。追及しようと思えば可能だが、特売が終わると困るのも事実だ。我が家の家計は基本的には燃え盛った車で表現出来る。無駄遣いが嵩んでいるだけなので自業自得だが。
「それと幸也。溶けてるわ」
「あ」
すっかり溶けて、地面に滴り落ちる抹茶の緑。それを傍目に、幸は立ち上がる。そして再び、穏やかに笑みを浮かべる。
俺はそれを見ながら、先程言いかけた言葉が思考を巡っていくのを感じていた。
――幸は今、幸せなのか、と。
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