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すると浩二が、そうだったんですね、と洩らした。
「俺は、てっきり、夕花さんが兄さんを突き落としたとばかり思っていました」
浩二がぽつりと零す。
するとその言葉に同意するように、良子と土橋も顔を見合わせて微かに頷いた。
どうやら、ここにいる全員が、夕花が洸一を突き落としたと思っていたようだ。
夕花は、自分を嘲笑うように、肩をすくめた。
「……ナイフを持って追い駆けたんですから、突き飛ばしたようなものです。ですので、どっちでも良いです。本当にすごい音がしたので、すぐに皆が駆け付けまして、救急車を呼びました。そうして目覚めた主人には、記憶がありませんでした」
夕花は、背筋を伸ばして深呼吸する。
「記憶がないというのが本当か嘘かは分からない。けれど私は夫婦がやり直せるチャンスだと心から思ったんです。……嬉しかったんです」
洸一は言葉もなく、夕花の話を聞いている。
「主人が退院したあと、相手の芸妓が私を訪ねてきました。彼女は綾香さんに聞いて、主人に記憶がないことを知っていました。主人には会おうとせず、私を前に彼女は土下座をしたんです。『私はとんでもないことをしていました。好きなだけ私を殴っても構いません。本当に申し訳ありません』と謝って……。私は、彼女が言うように、力の限り殴りつけたかった。けど、できなかったんです。結果的に私は愛する人を取り戻した身ですから……。
『昔の主人は死にましたので、どうかあなたもご自分の人生を歩んでください。そしてもう主人の前に現われないでください』と言って彼女を帰しました。彼女は何も言わずに頷いて、そのまま祇園を離れたんです。それから、私は平穏な時間を取り戻しました。私たち夫婦の新しい日々が始まり、主人と幸せな日々を送っていたんです」
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