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綾香は申し訳なさそうに、目を伏せた。
「女将の綾香さんが『二人は駆け落ちの計画を立てているらしい』と教えてくれたんです。主人も彼女も、自分が持っているすべてを捨てて、二人で生きていく覚悟を決めていました。これは大変だと思った私は、あの夜、この家に浩二さんと良子さんを呼びました。私の姿がないところで、二人から主人を説得してほしいと思いまして……」
そう言った夕花に、良子は苦々しい面持ちで頷く。
「あの当時の兄さんは、本当に勝手だったんです。援助してもらっての婿養子の立場でありながら、義姉さんが黙って尽くしてくれるのを良いことに、高辻家の金を使って好き勝手していた」
「お義姉さんは耐えるばかりで、本当に申し訳なく思っていました……」
弟妹の言葉に、洸一は絶句し、夕花は、申し訳なさそうに洸一を見る。
「あの夜もこんなふうに二人に責められて、主人は限界に達したのでしょうね。駆け落ちの計画はもう少し先だったようですけど、もうここにはいたくないと言って」
浩二は、目を伏せて話を引き継いだ。
「……俺は焦りました。洸一兄さんにこの家を出て行かれたら、高辻家との縁を切られてしまう。そうなったら、自分たちは終わりなんです。『自分勝手なことをするな』と兄さんを止めようとしました。兄さんは『自分勝手なのはどっちだよ。俺はもう家のために犠牲になりたくない、好きな人と一緒になりたい』と言って……それで俺はもう何も言えなくなってしまったんです」
夕花が自嘲気味な笑みを見せた。
「私は、そのやりとりを隣の部屋で聞いていました。そして停電になり、主人は書斎に籠り、浩二さんは気まずかったのか家の外に出ていきました。私が、二人きりで話し合いたいと主人の許に訪れると、『君の顔は見たくない。もうこの家を出て行くよ』と、私を置いて部屋を出たんです。そんな主人の後ろ姿を見ながら、私の中で何かが切れてしまったんです。『出て行くなら、あなたを殺して私も死ぬ』と、ナイフを持って主人を追い駆けました。主人は血相をかえて逃げ出しました。怖かったんだと思います。あの時の私は、本気でしたから……。
どうしても許せなかったんです。他の女に盗られるくらいなら、殺してやるって……。私から必死で逃げて、勢いよく階段を駆け下りた主人は足を踏み外して落下しました。私は、階段の下でピクリとも動かない主人の姿を見て、彼が死んでしまったと思いました。そこでようやく冷静になったんです……」
その時のことを鮮明に思い出したのか、夕花は口に手を当てる。
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