遠雷

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 無視しないでよ、という女の声は、はだけた浴衣の襟元から覗いている、乳房の付け根から出たように草太には感じられた。言い終わると、女の唇は放心したように震えた。輪郭を大きくはみ出した口紅は、彼女の美しさではなく正気の量の少ないことを誇張していた。  町で唯一の診療所を営む家に生まれた草太は、風変わりな女を見ることには慣れていた。彼は相手が「患者さん」だと思えば、他人のどのような奇妙な振る舞いをも、黙って眺めていることが出来た。  しかしこの頃、彼の生来の傾向である、醜さ嫌いが増した。彼は、醜いと感じる者への嫌悪を露わにするようになった。そのことには、彼が最近、美しい恋人を家族に加えたことが関わっていた。美しい者を手にした時、彼は自分が醜い者を軽蔑する権利を得たかのように錯覚した。彼自身は、昨年の夏と何ら変わらない平凡な少年であるというのに。  車輪を押し、自転車を進めて来た草太を、女は丸太のような腕を伸ばして歓迎した。彼女は近所で「巻ちゃん」と呼ばれていた。乳房が発達していて、成人しているという噂もあったが、誰も実際の年齢を知らない。  草太は巻が自分に向かい、前髪を引っ張る仕草を繰り返すのを見て戦慄した。巻は濃い微笑を浮かべてその仕草を止めた。 「あの暗いお姉ちゃん、本当にあんたの姉さん?」  草太は唇を噛んだ。彼の愛する蓮は、いつの間にかこの狂女に見つけられていたらしかった。草太は彼女に対し、雨粒のように微かな声で答えた。 「女房さ」  それは草太と蓮が五歳の時にした約束だった。十四歳になるまで、彼らは手紙のなかで、夫婦になるという約束を反芻してきた。旦那とか女房という呼び方は、初め彼らがままごとの道具にし、それから十年近くに渡って、日々の暮らしのなかで寂しさに塗る薬として使ってきた言葉だった。今や女房という言葉は、草太には常備薬の軟膏のように、慣れた手触りが感じられるものになっていた。 「女房とは恐れ入ったね、やっぱり姉弟じゃないんだ。顔、ちっとも似てないもんね」 「蓮は何て?」 「あたしに? あんたたちのこと?――うん『姉弟です』だって」  草太は多少の諦念と落胆を感じた。姉弟という嘘は、蓮がこれまでにも度々使ったものだった。自分には指を絡めて約束させるくせに、いざとなれば彼独りを残し、己の用心深さの茂みに逃げ込むのが蓮だった。 「ねえ、あんたの顔見せてよ」  草太は巻の視線の高さまでしゃがみ込んだ。彼女の膨らんだ胸に描かれた朝顔、胴に巻き付けた桃色の縮緬の帯、それらの雑多な残像がもつれて、乱れた色の洪水となり草太の目を襲った。彼は内心鼻をつまみながら、巻の丸い手に己の顔を預けた。  海沿いの町にありふれている、日焼けしているところしか他人の目に映るところのない、健康で平凡な中学生の顔である。彼は自分の顔が、郵便切手のように平凡であることを承知していた。これは診療所に来る、感情の傾斜が歯並びの悪さのように顔つきに出ている患者と比べて、彼が自分でした発見だった。また蓮と同い歳であったために、この特別な顔の持ち主と比較され続けたことも影響した。蓮だけでなく、一部の患者からも時折彼は激しく好かれた。彼らの愛を受けて、草太は自分が彼らの目に、異形な者として映っているらしいことを認識した。つまりあらゆる異形と対になるくらい、頑丈な型で抜かれた平凡さが草太には備わっているらしかった。 「全然違えだろ、蓮と」  草太は日焼けした首筋を潮風に晒しつつ、女の腕のなかで言った。 「うん、あの子やっぱり姉さんじゃないわね。あんたとは違う。あの子は、いつも一人で歩いてないもの」  それ、誰かに言ったか、と草太は巻を突き放して言った。怒鳴られても、彼女は潮風のなかで蕩けるような笑みを浮かべたままだった。 「知らない、あたしはただここに居て、あの子が男のひとと通るのを見てただけ、手を繋いだりして。別れる時、戸口で男のひとがオシッコして、あの子が怒ってた。母さんが『あの娘はふしだらだから、口をきいたらいけないよ、病気が伝染る』って。あの子はふしだらの病気でここに来てるのね、ここに来るひと、皆病気で来るんだものね」 「違う、お前が言うみたいな病気じゃない」  と、草太は石を切るような声で言った。今度は巻に多少の動揺が表れた。しかし、彼女は厚い身体から上手く涙を取り出せず、僅かに皺のついた目で、草太をじっと見詰めただけだった。  草太が小屋の戸を開けると、金具が軋んだ音を立てた。潮風は目ざとく、表通りから隠れた小屋の戸の金具にも擦り傷を付けてゆく。 「お帰り、草太」と、小屋のなかで机に向かっていた蓮が言った。旋回している青い扇風機の羽音にも紛れそうな微かな声だった。 「もうすぐ終わるのよ、この綴り方の宿題」  蓮は前髪を引っ張りつつ、磁器のような均質な白さを持つ顔を、ほんの少しこちらに向けた。彼は勉強をする時、長い髪をいつも耳の後ろで束ねていた。結びきれない髪を巻き付けている耳は、小屋の砂色の自然光のなかでも、オルゴールのように精巧で美しい形をしているように見えた。  草太の知る限り、これほど色の白い女は、この町では気が狂っていない限り存在しなかった。また診療所で見たどの狂女より、男である蓮の方が遥かに美しかった。その上、蓮の顔は、この浜に上がる貝や珊瑚のような歪な美ではなく、教科書に印刷された文字のような、形式に統べられた美の印象があり、少年ながら美人と言えそうだった。  蓮は勉強が好きで、蒸し暑い小屋にいる間中ずっと、扇風機を回してノートに何か書いていた。特に国語が好きだったが、作文のことを「綴り方」と言うなど、少し古い表現を使うのが癖だった。そのことを他人に言われると「ずっと入院していて、古い本ばかり読んでいたから」と説明した。「歳の近い子はすぐ退院していっちゃって、友達も出来なかったし。あとは看護婦さんとお母さんとしか話さなかったから、自分が女の子の言葉を使っているって知らなかったの」  従兄弟である草太を含め、親戚の誰も、この病気がちで美しい少年が、母親と同じ言葉で話すことを咎めなかった。蓮に少年らしく振舞わせたり、粗野な言葉を話すように仕向けるのは、小鳥に墓石を抱かせようとするような行為だった。  昨年の夏、母親が亡くなると、このか細い少年はそのことを受け入れられず、ある時から母親の残したクリームを使ったり、装飾品を着けたりし始めた。彼は少女のような己の容貌を、亡母の魂を写す鏡として使い出したのである。親戚の誰もが、彼が神経性の病気に罹ったと判断した。蓮の父親は、自分の弟である草太の父親には、息子が化粧まですることを打ち明け、診療所を営んでいる弟の家に、夏休みの間だけ預けることにした。  草太と、その兄の宗介は、蓮が来ることについて「肺の治療のため」と聞かされた。兄の宗介は、草太と蓮よりも三つ年上で、幼い時分から他人の二倍は腕力がある少年だった。彼は、時々遊びに来る美少女のような蓮が苦手で、弟分として仕込もうとしては泣かせて、草太がよく庇っていた。草太が、蓮を庇うことを一生の仕事にすることを五歳で思い立つのも、兄である宗介が蓮を迫害する態度に、子供ながら世間の大人の後ろ盾を見たせいでもあった。  草太は、ここ数年の間、手紙の遣り取りばかりだった蓮が、夏休みの間中うちに来ると聞いて喜んだ。蓮は入院している時、病院からよく手紙を寄越して、友達がいないから寂しいと言い、度々夫婦の約束のことを持ち出していた。彼は退院する時、いつかは自宅ではなく草太の元に来ると信じているらしかった。草太も蓮が好きだったし、従兄弟同士の付き合いの先に、自分たちの場合にはいつか夫婦として暮らす道があるように想像していた。また蓮を生涯の間、宗介を始めとしてあらゆる迫害の手から守る気でいたから、手紙のなかでは己の心情に勢いを持たせて、きちんと睦言を返した。  しかし、船着き場に現れた蓮が、女物の浴衣を着て、薄化粧をしているのを見た時、草太は魂が消えるほどに驚いた。父親の陰に隠れながら、蓮は大人の女のような、身体に笑窪の出来るような微かなお辞儀をした。肺病という話だったが、美しさ自体に罹ってきたのかと思われるほどに、この手紙のなかの女房は数年のうちに、不穏な美しさを発達させて彼の前に現れた。  蓮は、診療所の裏にあるプレハブ小屋で寝起きすることになった。彼の生活は、彼の父親が予め伝えていた、注意事項を遵守しながら作られた。まず食事は少量で、彼が拒絶する場合には強いて食べさせない。水だけは毎日飲ませるようにするが、これも強制すると絶食しようとするので注意が必要である。また男の子らしからぬ格好をしているが、男としても女としても扱わないようにしてほしい。強いて男装をさせれば、あれに母親の像を捨てさせることになり、この臍の緒を切ることを無理に進めると、既に何度も事件を起こしかけたが、自殺しかねない。「どうか魚を水のなかに捨てておくように暫くあのままにしてほしい」と、蓮の父親は手紙のなかで珍しく比喩的な表現を使った。蓮の驚くほどの小食については、楽天的な草太の母親が「食費の方が余っちゃうよ」と、送金される生活費の高さから冗談を言ったほどだった。  綴り方が終わったらしいことを、白い手が原稿を揃える動きで見た草太は、運動靴を脱いだ勢いそのままに、蓮の方へと駆け寄った。 「出来た?」 「うん――」  蓮は入退院を繰り返すなかで、学校にレポートを提出して単位を貰うという勉強の方法に慣れていた。夏休みの間中、この町に来るについては、彼は担任教師から幾つかの宿題を貰っていた。数学や英語のほか、いわゆる綴り方の宿題もあった。この町で生活した感想を述べよという単純なものだったが、草太はこれまでに蓮から聞いた話から、担任教師が彼に期待していることが想像できる気がしていた。  この家に来てからも、蓮は草太以外の家族と親しもうとしなかった。そのくせ時折、密かに外出してはどこかの青年と散歩している姿を目撃されたりした。ふとした時に乱脈な人間関係を結ぶほか、周囲と親しもうとしない彼の癖を、病気のように捉えて心配する大人がいるのだろう。  蓮は原稿用紙を一息に吹いて、文字の上の消しゴムの滓を落とした。 『最近僕は、今までと違う目を自分が持ち始めたのを感じています。海という、この不定形な水溜まり。征服できないものに絶えず見舞われる暮らしなど、初め、僕には耐えられないことのように感じられました。しかし、海辺で暮らす彼らと、実際に手を繋いでみることにより、彼らの心情が分かることもまた発見したのです――』  おい、と草太が積み上げていたノートの端でぽかりと蓮の頭を打った。 「もっと巧く嘘を書けよ」  蓮は俯いて、口のなかで何か不平らしいことを言った。 「お前頭いいから分かってるだろ、お前の先生、友達が出来たかって訊いてるんだよ」 「草太がいれば十分だよ」と蓮は言った。「旦那さん以上に信頼できる他人なんか、いないじゃない。あの先生独身だから分からないかもしれないけど――」 「俺たちだって別にケッコンしてる訳じゃないし」と草太は冗談めかして、再びノートを振り上げた。彼はそれを蓮に落とすのを躊躇った。この時、蓮は炎に近い色を目のなかに浮かべており、しかもその目を見せまいとして俯いていた。 「怒んなよ、あと、それ破いたりすんなよ勿体ないから」  蓮は、その言葉によって踏み止まったように原稿用紙を引き寄せ、「次、数学」と言って参考書を開いた。草太は、冗談を言って背にもたれることで、神経質な女房の逆鱗に触れることを避けようとした。   こんな滑らかな意思疎通の仕方にも、草太には原型の覚えがあった。幼い時、宗介に迫害されることで、彼らは寄り添いながら次第に共通の言語のようなものを獲得していった。もしかすると、蓮の言うような愛情ではなく、あの粗暴な兄の下で、迫害される者同士としての緊密さが自分たちの絆であるのかもしれないな……。     蓮の鉛筆を持つ手が止まった。彼は苦手な数学になると、思考する時間が増えた。草太は邪魔をしないよう息を潜めつつ、背中ごしに感じられる蓮の身動きに注意した。壁に掛かっている時刻の合っていない時計の秒針と、扇風機の音だけが虚ろに響いた。カレンダーのページが硬い音を立てて微かに翻った。草太は、小屋のなかに満ちてくる緊張から逃れるように、周囲を見回した。 「宗介が来てたのか、教えて貰えば良かったじゃん」  端に畳んであった蒲団に、大人の尻を思わせる大きな窪みが出来ている。誰かが腰を下ろしている姿が、影になって留められているようだった。草太はこの影の主として、すぐに身体の大きな宗介を思い浮かべた。蓮が男友達と歩いているのを見られたのも、皆屋外のことで、先ほどの巻の話からも、小屋のなかにまで引き入れてはいなさそうだった。  また蓮は、幼い頃の記憶から宗介を恐れていて、今なおまともに会話することさえ出来なかった。時折、宗介は宿題を教える名目で小屋に来るようだったが、用の済んだ彼が蓮を持て余しつつ、離れた所に腰を下ろしているのが目に見えるようだった。 「うん居たよ、さっきまで」と蓮は髪を耳にかけながら言った。「少し、教えて貰ったけど、やっぱりよく分からない……」 「あいつ高校生のくせに、中学の数学が分かんねえとか、本当に馬鹿じゃねえの」 「ねえ草太、立って」  と、蓮は彼を促して立たせた。草太はズボンの生地を払って立った。蓮は、母親の物であるというプリーツ加工の長いスカートの裾を払って立った。草太の両親は、彼ら同士で相談した上で、蓮に対して「スカートの日は外出しない」という約束をさせていた。「そういう格好じゃ、この辺りでは潮風が冷たいから」という草太の母親の説明を、蓮は大人しく聞いていた。スカートの衣擦れの音を聞いて、蓮はこの日小屋の外に出ていないはずだと草太は思った。  蓮は草太の首に両腕を回した。草太は小学校で習ったフォークダンスを思い出した。蓮は、何かを待つようにじっと目を閉じていた。 「宗介の方が、背が高いのね」 「当たり前だろ、三つも上なんだから」 「力はどっちが強い?」 「あいつに決まってる、脳みそまで筋肉だから……」 「ねえ、持ち上げてみて」  蓮は子供のようにせがんだ。草太は、細身ながらも同い歳の少年の身体を辛うじて持ち上げると、三歩歩いたところで転倒した。 「僕の旦那さん、一つぐらい負けない所があってもいいのに」  蓮は髪を乱しながら床に座り、珍しいぐらいの快活さで笑った。そして顔だけでなく、全身に漣のように笑いを広げた。それが危険な笑いに転じる兆候だということを、草太は最近の同居生活のなかで知っていた。彼はこの笑いを引き取る一言をすぐに言わなければならなかった。 「俺の方がお前に優しいだろ」草太は蓮の顔に触れた。蓮が顔に垂らしていた髪を、彼は耳の方にかけた。 「今はあいつより背も低いし、力も大したことないけど――俺だってお前の宿題分かるよ。数学だってみてやれるさ。それに夏休みが終わっても、お前が居たければずっとここに居られるように、俺が父さんたちに言うから」 「僕を本当に女房にしてくれるっていうこと? 遊びじゃなく?」蓮は草太の手を取って頬に付けた。 「ああ、本当にする」と草太は断言した。医者である彼の父親も、患者に対する時はそうした態度をとる。  蓮は目を見開き「もし将来、きみが僕を持ち上げられるぐらいに大きくて強くなったら」と、その後も長く草太の心に焼き付くことになった言葉を吐いた。それは別段、比喩的な表現ではなく、全く彼の真情から出たものらしいことが、持続的に草太を苦しめた。蓮が口にした平易な表現は、彼らの積み上げた関係の上においてのみ獰猛だった。 「その時初めて、自分が今何をしているかが分かるよ」  彼はそう言って、草太の指先を口に入れて舐めようとした。それからふと、部屋の床の隅に目を遣った。 「あんな所に落ちてる、大事なお金なのに――」  そう言って彼はスカートの膝をにじらせて行った。折れ曲がった茶封筒の面に、マジックで歪な文字が書かれていた。 「何だよ、それ」 「お金、お父さんから来たやつ」と蓮は言った。「宗介が郵便局から取ってきてくれたの。もともと僕のお金だから、必要な分だけ取って母さんに渡せって。でも、まだお小遣いも余ってるから……、全部おばさんにあげる。ねえ僕がそう言ってたって言って」  彼はそう言い、草太に向かって封筒を押し付けた。封筒のなかで硬貨がざらりと音を立てた。草太は蓮の言葉に、今日、夕食を食べられないという意味が含まれていることを感じ取った。  じゃあな、と言って草太は身体に鞄を掛け、封筒を手に掴んだまま出て行った。それから鈴音を鳴らして、小屋の鍵を閉めた。  草太が自転車に鍵を入れる音がした時、断続的に響く音の調子を聴いて、蓮は安堵した。草太は習慣のなかに紛れ、もはや自分には注意を向けていない。蓮はそう確信したところで、まだ痛む自分の指を口のなかに入れた。微かに血の味が滲んだ。自分の唾液すら付かない、指の深い付け根には、はっきりと赤い噛み跡が残っている。医者の家に住んでいながら、医者にも見せることの出来ない怪我を、自分はいつまで守り続けるのだろう。  また、敵の家で暮らすということが、どれほど自分の神経を弱めるだろうか。自分を大人や世間から一生守るといった旦那が、健気な中学生でしかないことが、既に苦痛の途上にいる自分にどのような意味を持つだろうか。  蓮は、扇風機でめくれたカレンダーの文字を見ながら、唾液に濡れた指を機械的に折った。一つ、二つ、三つ……あと幾晩をここで過ごせば、自分は母親と暮らしていた家に戻れるだろう? またその時までに、自分の指は全て残っているのだろうか?  ふいに表から、悲鳴が上がった。まだ表に居座っていたらしい巻を、草太が棒のような物で地面を叩きながら追う声がした。  用心深い蓮は、少年の落とした雷に、自分の忍び泣く音をそっと紛れさせた。
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