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煉瓦の敷かれた道を一体のビスクドールが歩いていました。金色の髪が、風に吹かれて、ユラァリユラァリと揺れています。球体の間接は、ビスクドールが歩くたびに、キィ……キィ……とぎこちない音をたてて、今にも動かなくなってしまいそうです。
ビスクドールは孤独でした。哀しくって、いつも胸のふかぁいところが、ズキリズキリと痛みます。だから今もこうして寂しい街の中、仲間を求めて歩いているのです。
デンマークの片隅にあるこの小さな街から人間達が皆出ていってしまって百余年。道の両側にずらりと並んでいる古ぼけた建物はどれもひび割れ、壁には穴が開いています。埃と黴の匂いも漂っています。特に街の中心には大きな時計塔は斜めに傾いてしまい、その針が動くことはもうありません。ただただ静かに建ち続けるだけです。
ビスクドールは街のはずれにある小川までやってきました。でも、カエル達の鳴き声すら聞こえてきません。水面はまるで鏡の様にお月様の光を反射しています。 小川には橋が架かっております。石でできた、古い橋です。ビスクドールは橋の真ん中まで行くと水面を覗きました。川の中に何か生き物がいるのではないかと思ったのです。 けれど、そこに生き物はおりませんでした。その代わり、水面に薄汚れた人形が映っていました。金色の髪は艶をなくし、緑色の目は濁っています。肌もくすんでいて、とても可哀想な姿です。
「かわいい」
ビスクドールはそう呟くとぎこちなく微笑みました。すると、水面に映った人形も、ビスクドールに向かってぎこちなく微笑み返ました。けれど、それはビスクドールを余計に哀しくさせるだけでした。もう、こんなことを幾度繰り返したことでしょう。
「カミーユ父さん! アクレシア!」
自分を作った者の名を、持ち主の名を、ビスクドールは叫びました。
しかし返事はありません。それもそのはず。だって、彼らはとうの昔に遠い空に向こうに逝ってしまったのです。ビスクドールの声が彼らに届くはずがないのです。
それでもビスクドールは動き続けました。孤独に耐えながら百年以上も!
なぜビスクドールはそんなにも長い間動き続けたのでしょう。人間なら、いいえ、生き物であれば、孤独に耐えながら百年以上生きることはできないに違いありません。
それでもビスクドールは動き続けます。
なぜなら、人形を動かすのは魂ではなく他者からの愛なのです!
カミーユとアクレシアの肉体はすでに朽ち果てていましたが、彼らの愛はいまだ地上に残り、ビスクドールを生かし続けているのでした。
ビスクドールは再び歩き始めました。月が冷ややかに辺りを照らしています。カサコソと哀しい音をたてているのは枯草でしょうか。
その時、ビスクドールは、通り過ぎようとしていた壊れかけの家の窓から何か光るものをみつけました。
「何かしら?」
ビスクドールは恐る恐るその家のドアを開きました。そして、一歩中に入り、コホンと咳をしました。うっかり埃を吸い込んでしまったのです。
ビスクドールは部屋の中を見廻すと、おやっと目を見開きました。 窓の外化から光って見えたもの。 それは美しい青色の瞳でした。
――自分と同じ、人形の目。
けれども、その人形は動きません。埃の積もった木製の机の上でぐったりとしています。レースとフリルがたくさんついたピンク色のお洋服も汚れて白っぽくなってしまって、まるでぼろ雑巾のよう。ブルネットの髪も乱れてしまっています。
「あなたも独りぼっちだったのね。辛かったでしょう」
ビスクドールは、ピクリともせぬ人形を自分の小さな家へ連れて帰ることにしました。もしかしたら、お世話をしてあげたら、この人形も自分と同じように動くのではないかと思ったのです。そうなれば、もう、ビスクドールは独りぼっちではありません。
ビスクドールは目の前の人形の手を握りました。
「わたしのお家にいらっしゃいな」
――カチャリ。
人形は音をたて、力なく倒れました。
ビスクドールはその人形にソフィという名前を与え、毎日髪を櫛でとき、体についた汚れを綺麗にふき取ってやりました。
「レディはいつも綺麗にしていなければならないのよ。だって、いつ素敵な王子様が迎えに来てくださるかわからないもの。王子様は、ここみたいに寂しい街にも、きっとやって来てくださるのよ」
ビスクドールは優しい声でソフィに話しかけます。その様子は人間のお母さんが自分の娘のお世話をする時のようでした。
すると幾月か過ぎたある日、ソフィはついに動き始めました。そして、ビスクドールの顔を見るとにっこり笑いました。
「ママン!」
それがソフィの最初の言葉でした。ビスクドールが喜ぶ様子を見ると、キャッキャッと笑いながら、「ママン、ママン」と繰り返します。 ビスクドールはソフィを抱きしめ、頬ずりをしてやりました。その目には涙がたまっています。
あぁ、こんなに嬉しいことが今まであったでしょうか!
ビスクドールは棚に置いてある木でできた箱の中から赤い毛糸を取ってきました。そして、ソフィをゆりかごに寝かしつけると、自分は編み物を始めました。
「お話ができるようになったお祝いに、ママンがあったかいセーターを編んであげますからね」
暖炉の火がいつもより明るく部屋を照らしています。ついこの間まで暗い部屋で一人泣いていたのがまるで嘘のよう。ビスクドールの心はいま、ホカホカと手袋をしているみたいに温まっていました。
ソフィの寝息を聞きながら、ビスクドールはその寝顔に静かに話しかけました。
「ソフィがあんよできるようになったら、一緒に散歩に行きましょうね。ママン、あなたがあんよできるようになるの、楽しみに待っていますからね」
どんな夢を見ているのでしょう。もしかすると、ビスクドールと一緒に散歩をする夢を見ているのでしょうか。ソフィが眠ったまま、楽しそうに笑い声をあげました。天子様の様な、無垢な笑顔です。 ビスクドールは、ふとカミーユ父さんの事を思い出しました。彼は生前、ビスクドールの前でしみじみとこんなことを言いました。
「愛においては、たとえ多すぎたとしても十分ではない」
いまなら、カミーユ父さんがどれほど自分を愛してくれていたのか、ビスクドールにはよくわかります。もちろん、ビスクドールに愛情を注いでくれたのはカミーユ父さんだけではありません。ビスクドールはカミーユ父さんの娘で自分の持ち主のアクレシアからもたくさんの愛をもらいました。
ビスクドールはなんだか恥ずかしくなりました。独りぼっちになってしまってから、ずっと、自分は誰にも愛されていないと思っていたのです。それどころか、カミーユ父さんとソフィが生きている時でさえ、その愛に気がついておりませんでした。
「あぁ、わたしはなんてお馬鹿さんだったのかしら。気が付くのが遅すぎたわ」
ビスクドールは申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。唇が微かに震えています。
「あなた達は、わたしにたくさんの愛情を注いでくださったのね」
ビスクドールの目から涙が流れ落ちました。けれど、それは独りぼっちだったころの冷たい涙ではありません。温かく、とっても優しい涙です。
ビスクドールは窓のそばまで行くと、夜空を見上げて両手を合わせました。 「カミーユ父さん、アクレシア、あなた達はわたしにたくさんの愛情を注いでくださっていたのね。お星さまになって遠くにいってしまった今も、あなた達の愛はわたしをこうして動かしてくれています。ありがとう」
遠い夜空の向こうで、仲良く並んでいる小さなお星さまがきらりと瞬きました。それはまるでカミーユ父さんとアクレシアがビスクドールに微笑んだかのようでした。
ビスクドールは温かい気持ちでベッドに入りました。今日はお布団がいつもより柔らかく感じられます。
「ママン」
ソフィが寝言を言いました。 ビスクドールは微睡みながら、ふっと微笑むのでした。
「ソフィ、あなたはどんなお夢を見ているのかしらね」
ソフィをみつけた日から三年。 ビスクドールはソフィを連れて小川にやってきました。小川の傍までやって来るのは久しぶりです。ソフィを見つけた、あの夜以来でしょうか。 ソフィはもう、歩くこともおしゃべりすることもできます。今朝なんて、お洋服をちゃんと自分で洗濯しました。ソフィはすくすくと健やかに育っています。 春風が優しくビスクドールとソフィの頬を撫でます。川岸に咲いている可愛らしい青色のお花から、甘い香りがフワッと漂ってきました。
「ママン、見て! お魚さんだよ!」
ビスクドールがソフィの指差す方を見ると、なるほど、確かに小さな魚の群れが、太陽の光を浴びてキラキラと輝いています。そして、その近くをアメンボがスゥーっと滑っていきました。
「今日はいい天気。これなら、お洋服がよく乾くわね」
真っ青な空を見上げ、ソフィがうれしそうに言いました。
「そうね。きっとよく乾くわ。ソフィ、あなた、まるでママンみたいなことをいうのね」
「うん!」
自分の真似をするソフィの頭をビスクドールは撫でてやりました。ソフィがくすぐったそうに笑います。その笑顔を見て、ビスクドールの心はまるでお日様の様にほかほかと温かくなりました。
やがて二体の人形は橋がかかっているところまでやってきました。石でできたあの橋です。今は蔦の蔓に巻き付かれています。
ソフィがスキップしながら橋の真ん中まで走っていきました。そして、身を乗り出して水面を見て、驚いたように声をあげました。
「ママン、お人形よ。それもわたしとそっくりさん!」
「こらこら、ソフィ。危ないから身を乗り出しちゃあだめよ」
「でも、ママン、お人形が! わたし達以外にもいたのねぇ」
「それはあなたの姿が水面に映っているだけなのよ」
ビスクドールもソフィに歩み寄ると水面を覘きました。そして、息をのみました。なんと、そこには二体のお人形が移っていたのです! そのうち一体はソフィでしたが、もう一体は見覚えのない美しい人形でした。その美し い人形は活き活きとした緑色の目をし、穏やかな表情をしています。頬は桃色に染まり、金色の長い髪はまるで上質な絹(シルク)のように日の光を浴びて輝いています。
ビスクドールは不思議に思いながら、美しい人形に手を振ってみました。そして、微笑みながら会釈しました。すると、なんてことでしょう。美しい人形も同じようにビスクドールに手を振り返し、微笑みながら会釈をしたのです。
ビスクドールは隣のソフィを抱き上げました。そして、背中を摩ってやります。するとやはり、美しい人形も隣に映っているソフィの影を抱き上げ、背中を摩りました。
「あぁ!」
ビスクドールは短く声をあげました。 ソフィが心配そうにビスクドールの顔を覗き込みます。
「ママン、泣いているの? 大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ、ソフィ。わたしは、あなたが一緒にいてくれて、とっても嬉しいの。人形はね、うれしい時にも涙が出るのよ」
そう、ビスクドールは気がついたのです。
水面に映っている美しい人形はビスクドール自身なのだと。
ビスクドールの心と姿は、ソフィと出会い、彼女を育てるうちに、いつの間にか美しく、まるで人間のように活き活きとしたものになっていたのです。それは、まるでカミーユ父さんがビスクドールにかけた魔法のように温かく、優しい奇跡でした。
――そうです。もうビスクドールは哀しくなんかありません。
いまの彼女の心はとても安らかです。
だって、彼女は他者を愛することを知ったのですから!
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