第 ニ 章 1

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第 ニ 章 1

968c6ee3-f539-46cf-b8ad-90974511b715 「それくらい、サービスするものでしょ?」  いい感じに肥えたオクサマが、人差し指でテーブルをコツコツとやりながら言った。 「そう言われましても……」  オクサマはダイエットのために、うちの店、モトムラサイクルに電動アシスト自転車を買いに来た。ダイエットなのにアシスト自転車なのって突っ込みたかったけど、あたしは努めて丁寧に接客した。  オクサマは小柄なのにタイヤが26インチの大きな自転車を選ぼうとするから、20インチを勧めたら「こんな小さいのおばあさんみたいじゃない」だって。あなたもおばあさんに片足入ってますよって言葉をぐっと飲み込んで、身長に合ったサイズの自転車を選ぶ重要性を懇切丁寧に説明した。  そしてぐったり疲れた。このオクサマ、とにかく人の話を聞かない。自分が言いたいことをまくし立てるからどんどん脱線していく。でもそれで、オクサマの携帯かけながら運転や逆走が判明。あたしは心配になって、ついには安全運転講習が始まり、自転車でもヘルメットをかぶった方がいいとアドバイスしたら「嫌よぉ。子供みたいじゃない」って笑いながら肩をぺしっと叩かれた。  だから、あんたの運転は子供レベルなんですよ!  結局、二時間近くかかって20インチの自転車で納得してもらい、ヘルメットやテールライトも一緒に買ってもらった。というか買わせた。それなのにさぁ。 「そんなに手間のかかるものじゃないでしょ?」  古い自転車の荷台に付けていたカゴを、新しい自転車に付け替えろだと。無料で! 「たった五百円じゃない。こっちは十万もする自転車買ってるのよ?」  高い買い物すればなんでも指図できるって、スネちゃまみたいな理論ですね。 「そう言われましても……」  やべ、ふて腐れた声になっちゃった。 「おい海、どうしたんだ」  後ろを振り返る。社長が眉間にしわを寄せてこちらへ歩み寄ってくる。 「あなた、ここの責任者?」  オクサマは社長の返答など待たず、今あったことをまくし立てる。  あーあ、嫌な予感がする。 「それは、大変失礼いたしました」  オクサマの話を聞き終えるなり、社長は頭を下げる。 「君、カゴの付け替えはサービスで」 「…………はい」 【カゴの付け替え・工賃サービス】と成約カードに書き込む。  ゴネて工賃サービスゲッツ。こういうの、なんて言うんだっけ?  ため息のひとつでもついてやろうかと思ったけど我慢した。そんなことしたら、あとで雷が落ちる。もっとめんどうなことになる。  それからしばらくして、あたしの背中に硬い声がかけられる。 「おい、海」  結局、雷は落ちるのか。 「はい。なんでしょう社長」  努めて平坦な声を出して、振り返る。  ここ、モトムラサイクルの社長であたしの父親、本村(もとむら)謙吾(けんご)。浅黒い肌に白髪混じりの短い髪。今年で67歳になるけど、眼光は鋭く、精悍とした面構えをしている。  渋面。そんな言葉がぴったりの表情で社長は口を開いた。 「おまえの言うことはわかるが、飲み込めんのか」  なんか、全部わかっているみたいだった。今日みたいなことは何度かあったし。  すみませんと言うのは違う気がした。飲み込めないのに、次は気をつけますと言うのは嘘だから、あたしは黙るしかない。 「まぁいい」  言っても無駄だというようにため息をつかれ、カチンと来て、言葉が口をついて出た。 「カゴを付け替えてほしいって普通に言ってくれればサービスしてました。それに、客の要求をほいほい受け入れるのはどうかと思います」  最近、ああいう客が増えた気がする。  うちは自転車と一緒に買ってもらったライトやカゴなら、取付け工賃をサービスしている。今日みたいに付け替えの場合は工賃がかかる。そう店頭に表示してある。  本来工賃がかかるものなんだから、工賃を払うのを前提で頼むもんでしょ? でも新車を買ったんだからサービスしてって気持ちはわかるから、感謝を込めてサービスする。現に作業料を取ったことなんてほとんどない。  そういうさ、口にはしないけど通じ合うのが日本の美徳じゃなかったの?  こっちは高い買い物をしてるんだからタダでやるのが当然って違くない? 思い出した。ゴネ得だ。 「だから、そういう客にかかずらう暇なんてない。客の要望をさっさと受け入 れて、販売数を増やすのがうちの方針だ」 「でもそんなことしてたら客単価が下がっちゃうんじゃない? あのおばさんおしゃべりだよ。ただにしてもらったって言いふれて、工賃無料があたりまえになっちゃうかもね」 「それでお客さんを連れてきてくれるなら結構だ。工賃くらい安いもんだ」  あたしは口を引き結んで黙り(だんま)を決め込んだ。これ以上は無駄にヒートアップするだけだ。言い負かされた、気もするけど。 「あの、よろしいでしょうか……」  従業員の(さとし)さんが困り果てた表情で声をかけてくる。  智さんは社長に用があったみたいで、あたしは仕事に戻ろうとして、 「おい海、ジャイロの整備はどうなったんだ」 「……………まだ手をつけてません」 「午前中にあげる予定だったろう」  しょうがないでしょ。午前中はお腹が痛くて動けなかったし、オクサマの接客に時間を喰っていたのは見てたでしょ。 「これ片付けたらすぐにやります」 「あの、海さん」智さんが割って入り「こっちの仕事は僕が引き継ぎますから、ジャイロの整備に取りかかってください」 「でも……」 「大丈夫です。ヘルプ助かりました。ありがとうございます」  ふんわり。そんな音がしそうな微笑みだった。  智さんはいつもニコニコしていて、あたしと同じ歳くらい見えるけど、実は八つも年上だったりする。穏やかな性格だけど、とても仕事のできる人で社長の右腕になっている。 「すみまんせん。お願いします」  バツの悪さを引きずってあたしは店を出る。むわっと体に絡みつく夏の熱気に辟易しながら一方通行の細い道路を横断して、モトムラサイクルの向かい、軒先にバイクがずらりと並んだ店舗に足を向ける。  正面はショーウインドになっていて、中に入ると右脇に展示バイク、反対側に商談テーブル。奥にはツール(工具)キャビネット()が鎮座し、事務室と休憩室に続くドアの挟み、ねずみ色の事務机が据えてある。木造二階建ての民家を改築したお店で、二階は本村家の住居。看板に隠れて見えないが屋根は瓦葺き。築50年オーバーの古屋だ。  あたし、本村海の実家(うち)は――
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