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第 三 章 3
胸にズシンときて、あたしは浅い息をついた。
「それ、いつ?」
「寒かったから……おまえが怪我して、三ヶ月くらい後だったかなぁ」
ふいに監督が顔をしかめる。
「なのにあいつよ、俺には関係ないってほざいて帰らねぇんだよ」
停滞を極める田舎を森屋は忌み嫌っていた。実家の農家を継げという父親との仲は相当に悪く、もう二度と戻らないと決めて実家を出たと言っていた。そんな、演歌の中だけでしか聞けないような話しが、森屋の現実だった。
「四の五の言わず帰りやがれって蹴っ飛ばしてやったら帰る金がねぇって。しょうがねぇから俺が出してやったんだ。そしたら親父さんと大ゲンカして帰って来たよ。レースやめて農業を継げって言われたらしい」
そんなの、森屋が飲むわけがない。
「それで、実篤に言ったんだよ。実家帰るのもひとつの道じゃねぇかって。レース屋の俺がいうのもなんだが、レースだけが人生じゃねぇだろ」
「森屋にそんなこと言ったの監督」
あたしは半笑いで言った。レースだけが人生だなんてのたまう男が、受け入れるどころか、ふざけんなぐらい返しそうだ。森屋のそういうところは監督も知っていたはずだ。
「なにも言わなかったよ。暗い顔して、どこ見てるんだかわかんねぇ目をしてたな」
「…………それ、本当?」
思わず訊いてしまう。嘘ついてどうする、と監督は蚊を払うように手を降った。
「それでな、実篤、チームを辞めるって言うんだよ。レース辞めるのか訊いたら、そうじゃねぇって。じゃあなんでチーム辞めるんだって訊いたら迷惑かけるからだとよ。頭ひっぱたいてやったよ。散々迷惑かけといて、今さらえらそうな口聞いてんじゃねぇって」
森屋がなにかをやらかす度に、パドックを謝って回ったのは監督だ。
「それで結局、チームだけ辞めて、レースは続けたの?」
監督は頷いて、ただ、と続ける。
「レースにエントリーはしていない。エントリーする金がなかったんだろう。チーム辞めたのも会費が払えなかったからだろ。ただブランクを作りたくなかったのか、たまに走ってたみたいだ。レンタカーでトランポを借りて、サーキットに行っていたらしい。それと平行してな、工具とか機材をネットオークションとかで売ってたらしいんだ」
あたしは思わず首を傾げて、監督が苦笑いする。
「首を傾げたくなるよな。工具や機材を処分するなんてレース辞める以外ねぇもんな。レース続けるんだか辞めるんだか、はっきりしねぇんだよ。それから顔を見せなくなって、気にはしていたけど、俺も実篤の面倒ばっか見てるわけにもいかんからな……」
監督のつぶらな瞳が陰る。
「あの日のことはよく憶えてるよ。都筑サーキットからうちに連絡が入ってな。すぐに病院に行って……よく眠ってるみたいっていうだろ。ほんと、そんな感じだった」
あたしは霊安室で眠る森屋を想像する。どこか青み帯びた薄暗い部屋で、顔に布をかけられ、音もなく眠る森屋。映画のワンシーンのようで、まったく現実感がない。
「実篤の親父さん、秋田から飛んで来てな、その日の夕方には東京にいたよ。親父さん、実篤にそっくりなんだよ。実篤が年取ったら、ああなるな」
監督は微笑んで、静かに表情を消す。
「親父さん、礼儀正しくて、無神経な人だったな」
「無神経?」
「あぁ。実篤がバイク乗ってることも、サーキットで死んだことも恥みたいに言ってた。愚息が迷惑かけて申し訳ないって、嫌味なくらい何度も頭を下げられたよ。こっちはそのバイクで飯食ってるのにな。バイク嫌いなんだろうな」
「監督、テラス席行く? あそこならタバコ吸えるよ」
しきりに口元を触っているのを見てあたしは言った。監督は首を小刻みに振って続ける。
「火葬に立ち会いたかったんだけど、もうこれ以上迷惑はかけられないって断られた。それでちょっと頭きたんだんだよ。ほっといてくれって感じでそりゃねぇだろ。でもよぉ、奧さん亡くして、立て続けに息子までって思えばしょうがないのかなって、あの時は我慢したんだ。でもな……」
社長は、鼻の下をつまみグシュグシュとやる。
「最期に、実篤に会っておけばよかったよ」
あたしは後ろめたさを感じていた。監督はちゃんと悲しんでいる。悲しんでいる監督にこんなことを訊くのは躊躇われたが――
「監督は、どう思う?」
「どうって、なにを?」
「……森屋の噂。知ってる?」
ふんと鼻を鳴らし、監督は首を大きく横に振った。
「わかんねえよ、俺には。……ただチーム辞めたり機材処分したり、身辺整理みたいなことをしていたのは確かだよ」
もうそれ以上訊くことはできなくて、あたしは口を噤む。
「まったくあの野郎は、いなくなってからも迷惑かけんじゃねぇよなぁ」
監督は呆れ口調で言いながら、お尻を浮かせて財布を取り出す。
「墓参りしたいって言えば、場所くらいは教えてくれるだろう」
そう言って差し出したのは、秋田県の住所が書かれたメモだった。
「実篤に、会いに行くんだろ?」
あたしは、少し考えて、
「わかんない」
故人に会いに行くという感覚が、あたしには今ひとつわからない。
あたしは無宗教で、魂とかあの世とかもあまり信じていない。気持ちの問題だってことはわかっているつもりだけど、墓石と対面してもしょうがないと思ってしまう。
というのは理由の半分で、実を言うとあたしはお墓が苦手だった。
あたしが8歳の時だ。社長の母親、あたしのおばあちゃんが亡くなった。
おばあちゃんは老いてなおかくしゃくとした人で、幼いあたしと一緒に駆け回って遊んでくれた。「なんでおめぇは自分の娘にやさしくできねぇんだ!」って、唯一社長を叱れる人で、いつだって味方になってくれた。あたしが堪えられなくなった時はおばあちゃんに抱きついた。包み込むようにぎゅーっと抱きしめてくれる。日向とお線香の匂い。そこには、心が溶けてしまうようなやすらぎがあった。
大好きだった。
あの日、おばあちゃんは突然、苦悶の表情で胸を押さえ、そのまま意識を失い病院に担ぎ込まれた。一命を取り留めたが別人のように衰えてしまい、三ヶ月後に亡くなった。
火葬が終わり、骨壺にお骨入れる段になって、火葬場の職員が『収まらないので失礼させていただきます』と平坦な声で言い、箸でザクザクとおばあちゃんの骨を突き崩し、骨壺に詰め込みだした。
息を呑んだ。首筋から湧き上がる恐怖に、幼かったあたしは火がついたよう泣き叫んだ。
あれ以来、火葬はもちろん、葬式もお墓も苦手だ。
おばあちゃんのことは今でも大好きだ。毎日仏壇に向かって手を合わせている。でもそれは宗教的な意味合いより、おばあちゃんのやさしい面影を思い浮かべるためにしている。墓参りはおばあちゃんに会いに行くというより、掃除をしに行っている。
今のあたしが、森屋の墓参りをしたところでなんの感慨も覚えないだろうし――
「そもそもあたしね、あいつがもうこの世にいないなんて、実感とか、全然ないんだよね」
苦笑いしたつもりだったけど、監督は眉根を寄せ、悲しげな顔をされてしまう。
あたし、今どんな顔をしているんだろう。
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