第 二 章 4

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第 二 章 4

 森屋は生意気にも、街乗りバイクとしてCBRを所有していた。  それが、トランポ共有で発生した移動費折半の支払いを森屋はいきなり滞らせやがって、ならCBRを売れと迫り、うちで買取ったんだ。  絶対に買い戻すから絶対売るな、とはしつこいくらい言われたけど、あたしは容赦なく売り飛ばすつもりだった。それが未だに売れ残っているのは、単に売れなかったから。  限定カラーに加えて走行距離が短く、森屋は大事に乗っていたから程度はかなりよくて、売値も割高だった。景気の悪さも相まって売れる気配がなかった。  派手なカラーリングだから店をにぎわすにはよかったし、限定カラーにプレミアがつくかも、なんて皮算用もあり、そのうち積極的に売ろうとしなくなり、森屋とも会わなくなって、〝元森屋のCBR〟という意識も薄れていった。  正一はCBRを買うために、結構前からお金を貯めている。  そうか。CBRはもうすぐいなくなるんだ。  絶対売るなと、結構マジな顔で言われたけど……もう森屋はいない。  廃車手続きは済んでいるから販売にあたり差し障りはない。在庫はさっさと現金にしなくちゃ。それにバイクは走ってこそ。誰かに乗ってもらった方がCBRも幸せだろう。 「ちょっと海さん。ちゃんと突っ込んでよぉ」  正一がCBRにまたがり、キー(イグニッションキー)をよこせとやって、あたしが「買ってから言え!」って突っ込むのが定番になっていたんだけど、 「あぁ……そうね…………」 「海さん、具合でも悪いんですか? ちょっと顔色も悪いみたいですけど……」  千鶴ちゃんが心配そうな顔で見上げてきて、あたしは首を横に振る。 「ちょっと考えことしてただけ」  本当に? と見つめられて、あたしは曖昧に笑ってみせる。すると千鶴ちゃんは正一の後ろのタンデムシートに跨がり、得意顔であたしに手の平をみせる。 「海さん、キーください」 「買ってから言え!」 「いでででで! 言ったの千鶴じゃん、俺じゃないじゃん!」 「やかまし! さっさと現金で耳揃えて買いやがれ!」 「正ちゃん早く買って~」  千鶴ちゃんが正一の背中に抱きついて、明るい声をあげた。 「車に気をつけるのよ」  子どもを見送る母親のようなことを言って、あたしは二人を送り出す。  カブでデートなんて色気ないって最初は思ったけど、それもCBRを買うためだった。千鶴ちゃんもそれに協力して、燃費が良くて維持費も安いカブで、お金のかからないデートスポットに赴く。食事だって、千鶴ちゃんの家で手料理をふたりで食べるんだそうだ。  ――いいカップルじゃない。  腐々していた気持ちが、少し浮き上がっているのに気づく。  あたしは、仲のいい二人を見ているのが好きなんだと思う。  とその時、で~んで~ん、とあたしが生まれる前からある振り子時計が7時を告げる。 「さて、閉店するかね」  ひとりごちて、表に並べてあるバイクを店内にしまう。お向かいはまだ営業中。会社帰りのサイクリストを見越して、8時まで営業している。  夕食をとって、残っていた仕事をやっつけて、店の灯りを落とした時には10時を回っていた。風呂で汗を流し、冷蔵庫を開けて発泡酒を一本手にして、考える。  明日の土曜日は二週に一度の半ドンの日だから寝坊できる。店は日曜定休。もう一本手に取ろうとして――やめる。今週は日曜日に仕事が入っているんだった。土曜日はその準備にあてる。 「今週は休みなしかぁ」  呟いて、ベッドの縁に背中を預けて缶を呷る。  売りたくもない自転車を売って、いじっても楽しくないバイクを整備して、たまにムカツク客の相手をして、社長と小競り合いして、友達と話して息を抜いて――  あたしの一週間は、そんなふうにして過ぎていく。  レーサーを引退して、家を出ることを考えた。もう走れない。家にいる理由もなかった。でもレースに関わる仕事がしたかった。家に残ればそれは叶ったけど、モトムラは、社長の近くは嫌だった。  そして思い知った。あたしはどこへも行けないって。  同業者に働き口をあたってみたけど、業界は不景気で求人どころか廃業の報が届く有様。普通の仕事に就くことも考えたけど、プロになりきれなかったレーサーが、レーサーを引退したらただの一般人。バイク屋はバイク屋にしかなれない。新卒ですら厳しいのに、キャリアゼロのあたしが今さら普通の会社に就職なんて到底叶わなかった。  気がついたら27歳で、五体満足とは言えない体。あたしに選択肢はないも同然で、可能性みたいなものは大幅に目減りしていた。  自分の将来に、生まれて初めて不安を抱いた。  そういうことに、レーサーを引退して初めて思い至り、そしてあたしは素知らぬ顔でモトムラで働き続けて、来年にはなんと三十路(みそじ)を迎える。  今のあたしを森屋が見たら、どんな顔するだろう。なんて言うだろう。  頭がふわふわする。疲れていたからか、あっと言う間に酔いが回ってくる。  ベッドに這い登り、天井を見上げる。  森屋の死を知ってから、一週間が経っていた。  あたしは涙を流すどころか悲しむこともなく、なんら変わらぬ生活をして、笑えてもいた。ただただ、森屋はもうこの世にいない、それだけが胸の奥に(たたず)んでいた。  目を瞑る。  かなり疲れていたのに、酔っ払ってもいたのに、なかなか眠れなかった。  
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