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第 三 章 2
「だいぶ変わったな……」
鈴鹿は数年前に全面改修工事が行われた。あたしが最後に鈴鹿に訪れた時、その工事の真っ最中だった。鈴鹿は、表面が滑らかな未来的な施設に様変わりしていた。
あたしはパドック内にあるレストラン、スズカゼの脇で待ち合わせの相手を待った。
「くぁ……」
盛大にあくびをかく。ひたすら眠くて、怠い。
早朝、といっても午前三時に悠真達をトランポに乗せて東京を出発。400キロ強の道のりをほぼ無休で走って鈴鹿まで来た。ほとんど寝ていない。
にじんだ涙を小指で拭っていると、「おーい」と手を振って近づいてくる人に気づく。
「海、久しぶりだなぁ。何年ぶりだ?」
あたしの二の腕にぽんぽんと手をあて、まっくろに日焼けした顔に皺をいっぱいに寄せて笑う。するとすきっ歯が露わになって、愛嬌のある顔になる。
待ち合わせの相手は、全日本選手権を主戦場としているレーシングチーム、カシワギレーシングの柏木監督だ。
「もうわかんない。監督、太ったんじゃない?」
「そうかぁ?」と少しでた腹をぼんと叩いて「かもな」うわっはっはと鷹揚に笑う。
「ごめんね。忙しいのに呼び出しちゃって」
今日の合同テスト、カシワギも参加していた。
「いいってことよ。海の顔見れてうれしいよ」
「あたしも監督に会えてうれしい」
どうしてだろう。サーキットにいると、こういう小っ恥ずかしいセリフが平気で言える。
「お腹すいた。ご飯食べよ」
スズカゼの内装は白を基調としていて、大企業の社内食堂みたいな雰囲気だった。壁の一面はガラス張りになっていて、パドックが見渡せる。
「ほら海、好きなもん食え」
監督が券売機に一万札を飲み込ませて、ボタンを押せと手を振って促してくる。
「監督ダメだよ。呼び出したのはあたしなんだから、あたしが出すよ」
「いいんだよそんなの。ほらおまえ、三重豚のとんかつ好きだったろ」
「好きだけど……」
言い澱んでいるうちに、社長がボタンを押してしまう。
「元気にしてたか」
テーブルにつくなり監督が言った。
「うん。まぁ普通に」
「足の具合は」
「疲れたりすると痛くなるけど、平気」
「謙吾とは、うまくやってるのか」
監督は社長の古い友人で、あたしと社長の関係もよく知っている。
「まぁ、相変わらずかな」
肩をすくめながら答えると、監督は眉の端を少し下げる。
「もしかしてあたし……心配かけてた?」
「あたりめぇだろ。大怪我して、ぱったり姿見せなくなったら心配するだろ」
「……えっと、すみません」
思ってもみなかったことに、あたしは首を縮める。
「別にあやまるこっちゃねぇけど、たまには顔を見せろよ」
あたしはなんともくすぐったい思いで頷いた。
それからご飯を食べながらお互いに近況報告をした。監督の口からは不景気な話ししか出てこなくて、改めてこの業界の行き先に不安を覚えた。
「監督、ここ禁煙」
食後の習慣なんだろう、監督はもはや自動的って動作で胸ポケットからタバコを取り出して咥えようとした。
「あぁ……そうだったな」
代わりのコーヒーに口を付けて、重たいものを下ろすように、大きく息をついた。
「それで、実篤のことだったな」
監督は森屋のことを名前で呼ぶ。カシワギは森屋が所属していたチームだ。
森屋はもうこの世にいないと知ったあの日、夜更けにもかかわらず電話をかけた相手が監督だった。今日監督に会ったのは、あたしがサーキットにいない間の、森屋の様子を訊きたかったからだ。
「荒れてたな」
「荒れてた?」
「あぁ。おまえが引退した後な、あいつ会社クビになってるんだよ。職場でうまくいってなかったのはおまえも知ってるだろ?」
自分の気持ちを言わずにはおれない、こだわりの強い性格の森屋だ。職場でもよく衝突があったらしい。職場の愚痴は、よくあたしに漏らしていた。
「それでますます金がなくなって、いよいよレースできなくなって……。もとからトゲトゲした男だったけど、それはレースに真剣だからって許されてるところがあっただろ。そういうのがなくて、まわりを嫌な気分にさせるような荒れ方だったな。パドックでケンカやらかしたときも、チームの連中から総すかんくらってたな……」
監督が、再度、重いため息をつく。
「そんな矢先にな、実篤のお袋さんが亡くなったんだよ」
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