第 三 章 4

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第 三 章 4

 鈴鹿が茜色(あかねいろ)に染まりはじめた頃、あたしはすっかり歩き疲れて、もう一度スズカゼでコーヒーを飲みながら知り得たことを反芻していた。  また会う約束をして監督と別れた後、あたしは広大なパドックを歩いて回り、知り合いを見つけては森屋について尋ねる、ということを繰り返した。  みんな一様に、なんで今頃になってと(いぶか)しんで、場合によっては事情を話す必要があった。知っていることを(こころよ)く話してくれる人もいれば、顔をしかめる人もいた。  あと、あたしを心配してくれていた人は監督だけじゃなくて、繰り返し反省した。  そうして浮かび上がったのは、あたしの知らない森屋だった。  森屋がパドックでケンカをした、とは監督から聞いたけど、にわかに信じられなかった。サーキットにいるレーサーは全員敵。なんてのまたう男だったけど、ケンカするのはコースの中でだけ。そういう分別は持ち合わせていた。  結論から言えば、本当だった。ケンカの相手に会うことができた。  発端(ほったん)は森屋の走行ラインを(ふさ)いだという、サーキットではよくある些細(ささい)なことだった。森屋は相手の過失を執拗(しつよう)に責め、そのうち相手を怒らせ、しなくていいケンカに発展した。  イライラしているかと思えば、生気の欠片もない顔で「生きている意味がない」とか「天才には敵わない」とか、ネガディブな言葉を口にして、すっかり元気を無くしていることも増えたらしい。  監督に実家に帰ることを勧められ、なにも言い返さなかった森屋。  あたしの知らない、弱気で、不安定な森屋。  人生を懸けて、自分の才能を試すと言っていた森屋。  話しを聞いているうちに、あたしは気が滅入ってしまった。  テーブルに肘をつき、手のひらを額にあてる。 「あのバカ…………」  あたしは、自分で思っている以上に、森屋の自殺が否定されるのを期待していたんだ。期待は裏切られ、自分でも驚くくらい参っている。 「ここ、いいか?」  顔を上げる。トレイを手にした晶だった。  自分のトレイを引いて場所を(ゆず)ると、晶は超大盛りハンバーグカレーが乗ったトイレをテーブルに置いて、向かいの椅子に腰掛ける。「あ、お冷」とすぐに席を立ち、コップ片手に戻ってきたかと思えば、今度はスプーンを忘れていたりと落ち着かない。  あたしは疲れていたのと眠いのとで、口を塞ぐように頬杖をついて黙っていた。晶はカレーを黙々と口を運び、あっと言う間に半分ほど平らげてしまった。  あたしは、ふっと鼻で息をつくように笑んでしまう。晶は昔から(おお)(ぐら)いで、食事をしている時は、子供みたいにうれしそうにしている。 「晶、犬食いになってる。その癖直しなって前から言ってるじゃない」 「え?」と手を止めて、上目遣いをあたしに向ける。  こうなさい、とあたしは自分の背筋を伸ばして見せる。 「お、おう」晶は大げさに背筋を大げさに伸ばしてみせて「海って躾とか厳しいよな」 「まぁね」  おばあちゃんがしっかり躾けてくれたし、社長も行儀にはうるさい。  カレーを平らげ、水を飲んで落ち着いたのを見計らって、あたしは口を開く。 「この間は、ごめんね」  すると晶はあからさまに安堵した顔になって、ちょっと可笑しくなってしまう。レースの時は、怖いくらい精悍な顔つきになるのに。
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