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第 一 章 3
* * *
森屋実篤。
少し面長の顔は、まぁ整っている方だと思う。
身長は168のあたしと同じくらいだったけど、猫背の所為で実際より低く見えた。手脚が長く、鍛えてはいたけどひょろっとしていて、長めのクセ毛も相まり、危うい雰囲気を持ったミュージシャンみたいだった。
あたしは森屋が所属していたレーシングチームの監督と仲が良くて、その流れで森屋と知り合った。口数が少なく愛想もない。とても社交的な性格とは言えなかった。
あたしも知り合って間もない頃は無愛想なヤツだと思っていたが、打ち解けてしまえば普通にしゃべるし笑いもする。
イラズラ好きというか、レッドブルとモンスターエナジーの中身を入れ替えたり、MotoGPレーサーの真似をしてブーツにシャンパンを注いで飲んだり、しょーもないことで人を驚かせる、よく言えばサプライズをよくやっていた。
出身は秋田で、実家は米農家。高校入学と同時にレース活動を開始。宮城県にあるサーキット、スポーツランドSUGOをメインに走っていたらしい。
停滞を極め、未来がないと故郷を忌み嫌っていた森屋は高校を中退して上京。当時17歳。未成年の小僧が上京できたのは、年上の彼女のおかげで、駆け落ち同然だったらしい。東京で彼女と住まいを共にして、森屋のレース活動は始まった。
森屋は稼ぎを、全部レースにつぎ込んでいた。
ライダーは年がら年中貧乏だ。レースをやるにはお金がかかる。とにかくかかる。
バイク自体が100万オーバーで、その上十数万とかかる整備費、ワンシーズンに何回も交換する6万近いタイヤ、ヘルメットなどの装備品、サーキットへの移動費、走行料金、エントリーフィー、あげたら切りがない。
地方選手権にワンシーズン参戦しようと思えば、やり方にもよるが、バイクや工具が揃っていたとしても、最低100万は要る。
森屋は文字通り朝から晩まで働いていた。昼間の仕事に加え、夜はバイトを入れていた。寝不足でふらふらになっている姿を見るのもめずらしくなった。そんな森屋のレース活動を、彼女がピットクルーとして支えていた。
しかしふたりの関係は、あるシーズンに終わりを迎えた。
直接の理由は知らないけど、彼女が、森屋についていけなくなったんだと思う。
レースウィークのスケジュールは、あり得ないくらいハードだ。サーキットには夜も明けきらぬ早朝に入る。サーキットは大抵山奥にある。
東京から栃木県にあるツインリンクもてぎに車で行くと片道二時間かかる。高速代をケチって下道で行ったりすることもある。そうなると早朝を通り越して、前日の深夜に出発することになる。当然、寝る時間なんて、ほとんどない。
レースは土曜に予選があり、日曜に決勝レースが行われるが、練習走行枠が設けられている金曜日から入る。現地で二泊する訳だけど、金欠ライダーに宿などご法度。ライダーはトランポと呼ぶバンにバイクを積んでサーキットに乗りつけるが、そのトランポで車中泊するのがサーキットの常識だ。
吹きさらしのサーキットは、夏は酷く暑く、冬は凍えるほど寒い。寝不足の体にムチ打って広大なサーキットを駆けまわる。トランポには栄養ドリンクが常備。男でもきついんだ。並の女ならすぐに音を上げる。
レースはひとりではできない。だから森屋と彼女のような関係は、サーキットじゃめずらしくない。そして、それと同じくらい別れがある。
森屋の元から彼女が去った――というのが正しいと思う。
あたしは彼女を冷たいとは思わない。一緒に上京したくらいだ。きっと森屋との将来も考えていただろう。森屋は選手としての成績を全く残せていなかった。プロ以前で、レーサーとしての収入は当然ゼロ。
あたしが知っているだけでも4シーズン、ふたりの関係は続いていた。むしろ4シーズンもよくがんばったと思う。
森屋は彼女と一緒に住んでいた家を出て、友達の家に押しかけたりしていた。どうにか一人暮らしを始めたまではよかったが、そこでお金が尽きたらしい。レース参戦のめどが立たないままシーズンが始まろうとしていた。
そんな森屋に白羽の矢を立てられたのが、あろうことかあたしだった。
森屋はトランポの共有を持ちかけてきた。あたしのトランポに、自分のバイクを相乗りさせろって言うんだ。あたしのトランポはワイドボディのハイルーフでかなりでかく、バイクを二台積むのも余裕だったけど、問題はそこじゃあない。
「あたしはおまえの彼女じゃないんだよ!」
あたしは森屋にウメボシを食らわせてやった。トランポを共有することがどういうことか、森屋はわかった上で言っていた。
――でも、目が眩んでしまった。
森屋は相乗りする代わりに高速道路料金とガソリン代を折半すると言ってきた。相乗りさせてやるんだから、そんなの当たり前なんだけど、頭でそろばんを弾いてグラッときた。重い負担でしかない移動費がかなり浮く。サーキットからの帰り道はくたくたに疲れてる。そんな時は森屋に運転を押しつけてしまえる。居候三杯目にはなんたらだ。
そんなメリットに、あたしは目が眩んでしまったんだ。
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