第1章 だけど、してみる

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第1章 だけど、してみる

「…さて、と」 その日初めて訪れた彼の仕事場は、個人で経営してる整体院。尤もマンションの一室に看板を出してるだけの職場だから、こうしていても見た目的にはひとの家に招き入れられた感覚とあまり変わらない。営業時間を過ぎてるから既にドアには『受付終了』の札が下げられていて、もうお客さんもやってこないはず。 そう考えると、別に変なことは起こらないってわかっててもどこか居心地悪く落ち着かない。今まで深く知る機会のなかった男の子と向こうのホームグラウンドで二人きり。無意識にそのことが気になって軽く背中の辺りがこわばるような。 もっともこの人に限って、特別感情的な絡みもない相手にいきなり変なことを仕掛けてくるとは。正直なところこっちも本気では思ってない。普段通り波立ったところの感じられない穏やかで端正なその顔をそっと盗み見しながらぼんやり考える。だからこそ結婚、なんて唐突な申し出を受けても。それも意外とありかな、とふと心が動いてその気になったっていうのに。 …いや、どうなんだろ。わたしは思い直して椅子の上で居住まいを正す。考えてみたらこれからまさに入籍しようかって話になってる相手と。密室に入って結果何か起こってもそれはそれで特に問題ないのか? 自分でもそこは未だに気持ちがどうにもはっきりしない。 おそらく施術前後のお客さんとの面談にはいつもこうやって使ってるんだろう、と思しきダイニングテーブルを挟んで彼と向かい合い、でも正面から顔を見るのも気が引けて目線を彼の手許に落とす。そこには今時あんまりお目にかからない、まっさらなごく普通のA掛けのノートがあった。 いわゆるセミB5判、てやつ。わたしは学生の時に使って以来かな。何しろ仕事が仕事だから、とにかく紙に手で何か書く、って機会がほんとにない。 「…何で手書き?」 何となく沈黙が気詰まりだったのかもしれない。気づくと口からぼそっと思ったそのままの疑問が漏れていた。そこでやっと星野くん、わたしの暫定『婚約者』が見かけによらない大きなごつい手にペンを握ったままで初めて顔を上げてこっちを見た。 「そっか、今どき珍しいかな。単に普段の習慣からなんだけど。お客様と話すときなんか、こうやって覚え書き作るのが癖になってて…。誰かと情報共有する必要もないから。つい自分一人がわかればいいや、っていつもそのまま。データを整理したりもしなくて…。だからこのところしばらく、パソコン立ち上げてもいないや」 「そうなの?わたしなんかちょっとしたメモでもタブレットかスマホ使っちゃう、つい。その方が早くない?」 「そりゃ。種村さんは仕事柄ね。SEなら、もういちいち筆記用具使うこともないんだろうな。僕なんか、本来アナログだからさ。人間が」 そういう問題かな。ちょっと異議がないこともないけどとりあえず口を噤む。大体、そっちだって元々はわたしと同じ会社にいたんだし。当時はそれなりにIT関連の仕事こなしてたわけじゃん。それをそんなに綺麗さっぱり、アナログ側に振れるもんなのかな。 まあ、本人は向き不向きについて思うところがあったんだろう、当時も。だからこそこうやって、今では全然違う畑の仕事に就いてるわけだし。 星野くんは動じた風もなく落ち着いた表情をこちらに向けて先を続けた。 「とりあえず、これはまず契約条項の洗い出しというか。思いついたことをお互いにどんどん口に出していって、最後に整理してまとめるための素材だから。ほんとのただの下書きで、これを基にあとで清書して文書にまとめるよ。それにノートパソコンだと。こうやって向かいあってたら種村さんの方では僕の書いた内容が見られないでしょ」 「うん」 まあそれはそうだけど。だったら隣に座って一緒に覗き込めばいいだけじゃないかな、と思い浮かんだが肩を竦めてスルーし、素直に頷いた。それだと二人きりの空間でなんだか距離が近い。やっぱり気後れがする。 しかし手で書いたことをあとで清書するってのも全然こっちにはない発想だ、普通とりあえずランダムに打った文章でもあとからいくらでも継ぎ足したり並べ直したり、修正は簡単にできるから。そう考えたのは事実だけれど、いちいち口には出さなかった。 これは仕事じゃない。だから、そこまで効率を突き詰める必要なんかないんだ。星野くんがまとめやすいよう、わたしたち二人が論点を整理しやすいよう話を進められたらそれでいい。 彼は片手にペンを持った状態で、ノートの上に軽く組み合わせた両手を載せて改めてわたしを見やった。 「そうだな。そしたら、まず最初に考えるべきことは。…例えば、入籍後の住居については。どうしようか。種村さんの方では、こうしたいとか。希望とか展望はある?」
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