「祖父と木の洞」

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 ここはどこなんだろう。   その時涼介の背中に心地良さとは程遠い冷たさを持った何かが発生した。ついさっきまで聞こえていたひぐらしの声は森にはなかった。冷気を帯びた風が葉を揺らし、頭上では涼介を蔑むようなけたたましい声が聞こえる。突然、森の中に1人だけぽつんといる自分を自分で見ている感覚が脳裏によぎる。それは軽トラックの中での恐怖から逃れるために行った行動が、次の恐怖を生み出す引き金となったことを笑う、シニカルな視線に似ていた。涼介はここにきて初めて自分が一人でいることに気づいたのであった。 「爺。爺。どこにいるの。僕はここだよ。早く来てよ。ほら早く」あどけない少年のソプラノが森に響く。   しかし返事はない。あるのは風に揺れる葉のひしめきと、野性味溢れる鳥達の囀りだった。涼介は初めて爺がいないことの寂しさと自分の頼りなさを思い知った。   涼介は走り出していた。あの場所にずっといることが怖くなったということには気付かないふりをしながら。その臆病な少年の自尊心が少年自身によって、浮き彫りにされていることに気づきながら。ただ何かから逃れるように懸命に走っていた。   揺れる視線の端に何かが見えた。それは、意識していたから見えたというよりも、森の中の雰囲気とは全くと異なるものを醸し出していたからであった。それは黒い穴のようなものだった。後から調べてみると、その穴が洞と呼ばれているものだということが分かったが、この時の涼介には禍々しいものに感じたのであった。その黒さは何か地獄のようなものを涼介に意識させ、同時になぜか目が離せないような蠱惑的な魅力も持ち合わせていた。   涼介は手招きされたようにその穴へ近づいた。穴は縦20センチ、横5センチほどの小さなものであったが、奥の見えない黒さに涼介は魅了されていた。その穴に何かをしたいと思う好奇心にのまれ、近くにあった木の棒をその穴の中に何度か突き刺した。   数秒の沈黙の後、穴の中から大きな羽を震わせたスズメバチが獲物を捉える獣のような所作で出現した。涼介はスズメバチの大きさと黄色と黒の本能的な圧力に怯え、後ずさりしたが、なれない長靴のせいで転んでしまった。雀蜂はゆっくりと敵を見定め、耳障りな羽音を周囲に発生させて洞から飛んだ。   涼介には足の小指を流れる汗の一滴の場所にいたるまで、すべての肌の感触が手に取るように分かった。生命の危機を認識した脳が、緊急事態に陥ったため感覚神経の上限を決壊させ、涼介にヒトとしての真の力を呼び起こしたのだ。だが、羽の振動する音は同時多発的に増え始め、気づけば数十匹の大群となっていた。   その集合体は学校のマラソン中に通過した人の口の中に蚊を忍ばせてくる不愉快な蚊柱が、可愛く見えてくるほどに殺気に満ち溢れていた。涼介は自分がスズメバチに刺されてしまうことを直感的に理解し、自然に手をかけた自分の安直な愚かさを呪った。   群れは涼介へと羽音を一斉に鳴らしながら向かって来た。涼介には麦わら帽子のつばで自分を隠す程度の努力しかできなかった。羽音が近づいてくる。涼介は森の中で小さくなった。親から叱られる少年のように。しかし、その叱咤には愛はない。あるのは自然の法則と本能の咆哮だった。涼介は予想される痛みを受け入れようと体を強張らせた。
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