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コツコツと革靴のかかとを鳴らしながら、胸ポケットに仕舞った名刺を取り出す。
先程はゆっくりと確認する余裕もなかった。まじまじとその小さな紙面を見つめる。そこには新宿区にある美容室の名前と、『仲谷庸介』という氏名が書かれていた。
「なかやようすけ、か……」
口の中でそっと呟く。
男からはやはり、同類の匂いを感じた。男の方も、慎の匂いを感じ取りつつ、反応をじっくりと確かめ、距離を縮めようとしているように見えた。
「口説かれかけてるのかなぁ、俺」
遊びの延長のつもりか、それともまさか本気――いや、それを判断するにはまだ相手のことを知らなさ過ぎる。『女とは別れた』という都合のいい話も、イマイチ信用できない。
慎は手ぐしで髪をかき上げながら、あの妖しげな、誘うような瞳をまた思い出していた。誘惑に負けたくなるような、深みにはまっていきそうで恐ろしいような、複雑な思いが渦巻く。
そういえば、少し髪が伸びてきた。
髪を指先で摘んで、ツーッと引っ張ってみる。視線を上げると、黒い前髪が街灯の明かりに透けて、焦げ茶色に縁取られていた。
――次の土曜日にでも行ってみるか。サービスするって言うし……。
髪を切るだけ。それだけだ。そう自分に言い訳をしながら、慎は街灯の明かりに目を細めた。
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