00 プロローグ

10/10
670人が本棚に入れています
本棚に追加
/138ページ
 コツコツと革靴のかかとを鳴らしながら、胸ポケットに仕舞った名刺を取り出す。  先程はゆっくりと確認する余裕もなかった。まじまじとその小さな紙面を見つめる。そこには新宿区にある美容室の名前と、『仲谷庸介(なかやようすけ)』という氏名が書かれていた。 「なかやようすけ、か……」  口の中でそっと呟く。  男からはやはり、同類の匂いを感じた。男の方も、慎の匂いを感じ取りつつ、反応をじっくりと確かめ、距離を縮めようとしているように見えた。 「口説かれかけてるのかなぁ、俺」  遊びの延長のつもりか、それともまさか本気――いや、それを判断するにはまだ相手のことを知らなさ過ぎる。『女とは別れた』という都合のいい話も、イマイチ信用できない。  慎は手ぐしで髪をかき上げながら、あの妖しげな、誘うような瞳をまた思い出していた。誘惑に負けたくなるような、深みにはまっていきそうで恐ろしいような、複雑な思いが渦巻く。  そういえば、少し髪が伸びてきた。  髪を指先で摘んで、ツーッと引っ張ってみる。視線を上げると、黒い前髪が街灯の明かりに透けて、焦げ茶色に縁取られていた。  ――次の土曜日にでも行ってみるか。サービスするって言うし……。  髪を切るだけ。それだけだ。そう自分に言い訳をしながら、慎は街灯の明かりに目を細めた。
/138ページ

最初のコメントを投稿しよう!