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01 庸介という男
慎は小さな印刷会社で、DTPデザイナーとして働いている。印刷物のデザインや、入稿用のデータを作るのがその仕事だ。
終業時刻間近の夕方になってから、営業担当が「明日イチまでにデータが欲しい」と、急ぎの仕事を持ち込んでくることはザラなのだが、ここのところそのパターンばかりで、長時間残業の日が一週間以上も続いていた。
しかし今日は珍しく、ほとんど定時で退社することができた。
花の金曜日だ。何人かの同僚から飲みの誘いを受けたが、慎はそれを全て断り、ひとりオフィス街の一角にある小さなゲイバーへと足を運んだ。
無性に、自然体で時を過ごすことが出来るこの店が恋しい気分になっていた。
店の外観は照明が控えめで、薄暗い。扉には見落としてしまいそうなくらい小さな、『Tomcat』と書かれた看板がかけられている。
アンティーク風のパネルドアを開けると、カランと乾いたベルの音が鳴った。
「いらっしゃい――あっ、慎ちゃんだ」
バーカウンターの中から細身の男が手を振り、微笑む。店子のユウタだ。
「久しぶりー」
「しばらく」
慎もユウタに片手を上げて、微笑み返した。
大学進学と同時に地方から出てきて、そのまま就職し、慎の東京暮らしも8年が経つ。
20歳になった時、飲酒解禁記念にと足を踏み入れた最初の店が、このバーだった。
『初めての酒はゲイバーで!』と、ずっと心に決めていた。しかし当時まだ若かった慎は、その濃厚な空気にビビってしまい、有名なゲイタウンに単身乗り込んでいく勇気がなかなか出なかった。
ごく普通のオフィス街の外れでひっそりと営むこのゲイバーを最初の店に選んだのは、そういった理由からだ。以来、庶民的で落ち着いた雰囲気と、穏やかな交流を好む客層が気に入り、顔なじみの常連になっている。
ユウタは、慎が初めてこの店に訪れた当時から働いている店子だ。歳も近く、慎にとっては東京で初めて出来た親友のような存在だった。
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