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*03 Tomcat〈雄猫〉
あまりの蒸し暑さに、額の汗を拭う。
夜とはいえ、7月下旬の19時の空は、まだほんのりと明るい。人混みの中で視線を上げると、立ち並んだ街灯の間を、コウモリの影がひらひらと縫っていくのが見えた。
慎は一日の仕事を終え、その足で港区のオフィス街へと向かっていた。
駅前の雑踏の中をくぐり抜け、路地に入る。気温が高いせいなのか、街路樹の上でまだセミが鳴き続けている。土も緑も少ない場所なのに、彼らは一体どこから現れたのか。あまりにけたたましいその声に、耳を塞ぎたくなったその時だった。
「慎ちゃん!」
セミの大合唱に混じって、聞き覚えのある声が届いた。
振り返ると、そこにいたのはゲイバー『Tomcat』の店子――ユウタだった。
ユウタは手に持ったレジ袋を揺らしながら、小走りで慎の隣に並び、ニッコリと微笑んだ。慎も片手を上げてそれに応える。
「ユウタ。これから出勤?」
「ちょっと買い出しに行ってたトコ。慎ちゃんも、これから店来るの?」
「そう」
「じゃ、一緒に行こう」
促され、二人並んで歩き出した。
ユウタはレジ袋をブンブンと振り回しながら、機嫌良さそうに歩調を弾ませている。拳ひとつ分低い位置にあるその顔を見下ろすと、ユウタも慎を見上げた。
「そういえば、どうなったの? 例の男」
「電車で会った人?」
「そう」
「……仲良くしてるよ」
ユウタの歩みがほんの少しだけ遅くなる。
慎は手を差し出して、ユウタが両手に下げていた袋の一つを持ってやった。袋は思いの外、ずっしりと重たい。見ると、底には缶詰のような物がいくつも透けている。
ユウタは慎に目線で「ありがとう」と合図を送りながら、小首を傾げた。
「……付き合ってるの?」
「付き合ってない」
「ふーん……でも、いやらしい関係だったりして」
慎はギクッとして、一瞬足を止めた。
動揺を隠そうと、すぐにまた先程と同じ歩調に戻ったが、ユウタはそんな慎をニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて振り返った。
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