エピローグ

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エピローグ

「ふあ〜」  朝陽が窓から射し込む。思わず大きなあくびが出てしまった。    だんだんと夜明けが早くなってきて、気がつけばもう6月になろうとしている。  Mフーズコーポレーション株式会社に就職して、はや5ヶ月。最初の1ヶ月は先輩についての外回り。それから1人で仕事をするようになって、2ヶ月。そこから仕事にも慣れて、手応えを感じられるようになってきた。  今日は土曜日で会社は休みだ。ゆっくり眠ることができた。  3月の真ん中辺りで、引っ越しを行った。職場に近い部屋に転居したのだ。父と兄、姉夫婦からの助力も得た引っ越しで、かなりスムーズに終えることが出来た。  ドアを開けて、洗面所に向かう。口をゆすいで歯を磨いていると、足元に何か当たる感触がした。 「にゃあ〜」  こちらを見上げて鳴いている。レッドタビーとホワイトが混じった毛並のマンチカン。  ちなみに、このアパートはペット育成OKだ。というか、もともとそういった物件を探して選んだ。 「おはよう、スピカ」 「にゃ〜ん」  スピカは話しかけると返事をすることが多い。頭の良い猫だ、と感じることが多々あった。 「腹減ってんのか?」  スピカは答えない。俺の脚に身体を擦り付けた後は、じっと座ってこっちを見つめている。俺を迎えにきたのかな?と感じた。  口をゆすいで、歯磨きを終える。歯ブラシをカップに入れて、洗面所に置いた。  キッチンに向かう。この建物はけっこう造りが特殊だ。3LDKの2階建の物件。  入ってすぐは廊下。2つの部屋があり、廊下の突き当たりがトイレ。トイレの脇が洗面所とバスルーム。2階にもう1部屋あり、そして奥がLDKになっている。  ぴょんぴょん、とスピカが階段を登る。階段は玄関のすぐ脇にあって、吹き抜けになっていた。  リビングダイニングキッチンのドアを開けると、鮭を焼く匂いが鼻に入ってきた。 「おはよう」  声を掛けると、キッチンで朝御飯の準備をしている彩佳がこちらに振り向いた。 「あ、おはよー。ちょうど御飯が出来たよ〜」  白いもこもこのルームウェアの上から、猫のエプロンを付けた彩佳が、花柄のカーペット上に置かれたテーブルに、朝御飯を並べていく。 「おっと、その前にお茶を一杯だね。待ってて」 「俺、スピカのご飯出そうか?」 「ああ、ごめんごめん。お願い」  俺が3LDKという広い間取を選択した理由。それはもちろん、彩佳と一緒に生活するためだった。単純に同棲、ということではなくて、その先も考えている。  年が明けてから話しはじめていて、1月の終わり辺りから物件探しをはじめた。早くしないと3月になって、いい部屋が見つからなくなるかもしれないと思ったからだ。  ある日曜日のこと。家族が集まっている中で、会ってもらいたい人がいる、と切り出した。その瞬間、我が家の時間の流れがぴたりと、静かに止まった。  七瀬が亡くなって女性と無縁になった俺が、まさか女性と交際していて、結婚も考えているとは思わなかったようだ。  ガチガチに緊張した彩佳を、ウチの家族は温かく迎えてくれた、と思う。たぶん。恐る恐るウチのリビングに入ってきた彩佳は、まるで寝ている時のスピカのように身を丸くしていた。彩佳を見た兄の奥さんが、「え、やだ。綺麗」と小さくつぶやいたのが聴こえて、わずかばかり鼻が高くなった。  かくして高橋家を巻き込んだ引っ越し作戦は始まった。  彩佳は麻衣さんと協力して、自分の荷物をまとめた。とはいえ、彩佳はあまり荷物がなかった。絶対に新居に持って来たがったのが、彩佳の愛猫スピカと、クロスバイクだった。  彩佳はずっと、スピカが新居に慣れずにストレスを抱えないか気にしていた。最初はトイレを決められた場所でしなかった。だが徐々にスピカもこの新居に慣れていったようだ。 「いただきます」  ふたりで手を合わせて、朝御飯を食べる。  白米に、鮭の切り身、目玉焼、キャベツときゅうり、ハムのサラダ、そして、大根と油揚げの味噌汁。目玉焼きの端っこが少し焦げているのは、彩佳の可愛らしさの表れだ。  スピカもキッチンでご飯を食べている。カリッ、カリッ、という音が聴こえてくる。  今までも朝食を摂る習慣はあったが、ちゃんとしたメニューが並ぶことは稀だった。まず作るのが面倒というのがある。彩佳と暮らしてからは、バランスのとれた食事を摂っている。それが現在の俺のエネルギー源だ。  朝食を終えると、俺は食器を回収してシンクで洗い物をはじめた。御飯を作るのは彩佳。洗い物をするのは俺。そういう決まりになっていた。  リビングのテーブルの上を拭く。彩佳がテーブルに参考書を開いて読み耽っている。 「最近ずっとそれ読んでるな」  彩佳の隣に座る。彩佳が見ているのは、作業療法士についての参考書だ。  医療事務の資格を持つ俺の姉と出会った彩佳は、医療について興味を持ちはじめた。自分も医療に携わる人たちに助けられてきた。だから自分も人の手助けをしてみたい。そう思ったのだ。  作業療法士という資格は、リハビリテーション職とされるもののひとつ。作業を通して健康と幸福な生活の推進にかかわる職業で、人々が日々の生活の営みに参加できるようにすることが目的の仕事だ。  資格を取得するためには、専門の養成学校を卒業し、作業療法士国家試験に合格しなければならない。 「私、できるかなあ」  彩佳が俺の肩にもたれかかってきた。  なにがあっても彩佳を応援する。それだけは決めている。 「大丈夫だよ。彩佳なら」  しばらくして、彩佳は起き上がってまた参考書に向き合った。 「大翔さんに言われたら、大丈夫な気がしてきた!」 「お、その意気だ」 「その前にお金貯めないとね」  そう。まずはお金を貯めて医療技術専門学校に通うことが先決だ。国家試験云々はその後になる。  彩佳の夢を応援する。それが、俺の今の原動力であり、自分自身の夢でもある。 「でもなあ…」悩ましいような、彩佳の小さなつぶやき。 「どうした?」  じっと参考書に目を落としながらも、彩佳の表情から察するに、なにか別のことを考えているようだ。 「専門学校が3年。そこから働きはじめて、けっこう時間経っちゃうんだよね」 「それが何かまずいのか?」 「え? …だって、さ」  彩佳が何を言いたいのか。意図が読めず、思わず横から彩佳の顔を覗き込む。綺麗な横顔だ、と改めて見入ってしまった。 「だって、ね?」 「なんだよ?」  一向に意図を読めない俺に対して、彩佳が少しむくれたような顔をした。だが無駄である。その表情すら、俺にとっては愛おしいものだ。 「だって…。赤ちゃんだって欲しいもん」 「へ……?」  上ずったような、情けない声が出た。あ、そ、そういうこと? 「ねっ⁉︎」  こちらを見つめて、強い眼差しで同意を求めてくる彩佳に対して、「いや、まて」と否定出来ようはずがない。そして彩佳がさらに密着してくる。 「私は、欲しいなぁ」  甘い声。顔が近づく。毛づくろいをしていたスピカがこちらを見ている。  触れた唇の感触は、初めてキスした時と変わらない。柔らかさも、ぬくもりも。 「大翔さんは?」  首を傾げた彩佳がじっと俺を見つめてくる。 「そ、そうだね。やっぱり、うん。そうなるかな」  にっこりと、彩佳が微笑んだ。うんうんと、頷いている。  まぶしく感じる。その存在が。そしてたまらなく愛おしいと感じる。 「やっぱり、彩佳は綺麗だし、可愛い」 「へ…?」  唐突な褒め言葉に、彩佳が目を丸くする。さっきとは立場が逆だ。  いくつになっても、君にときめいていたい。そう思う。  彩佳を抱き寄せて、今度は俺からキスをした。  初夏の陽射しがリビングに差し込む。少しずつ気温も上がってきている。  新緑の息吹き。この寒い町にも、夏の匂いが香り出していた。
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