くろがねマスク

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くろがねマスク

「はあ…」  溜息と共に、白い息が口から出ていった。  愛車のミライースのキーをロックして、集合ポストの前で止まる。  時間は午後10時30分過ぎ。アパートの前の人通りがなく、周辺の住宅も、部屋の灯りが点いている家と、そうでない家があった。  いつものように、集合ポストを開ける。新しくオープンした美容院や、マンションのチラシが投函されていた。どれも縁のないものばかりだ。時おり利用する宅配ピザのチラシ以外は、ゴミ箱行が確定だった。  ポストの中にひとつ、見慣れない封筒があった。白いその封筒の宛先には、高橋大翔(ひろと)様と自分の名前が記載されていた。  封筒の裏面を見て宛名を確認すると、そこには見覚えのある会社名が書かれていた。  また、溜息が出た。開封しなくてもわかる。4日前に受けた採用面接の合否を報せる通知だった。封筒が届いたということは、不採用だったのだろう。  一気に気持ちが暗くなり、重い足取りのまま部屋へと向かった。  部屋に入るなり、封筒を開けた。かすかな望みすらも打ち砕く、不採用を告げる文言が、白い紙に書かれていた。宅配ピザのチラシだけを取り、残りのチラシは不採用通知の紙と共に、まとめてゴミ箱に捨てた。  すぐにシャワーを浴びた。トイレ、洗面台、バスタブが一緒になった三点ユニットバス。湯船に漬かりたい時は、近所にあるスーパー銭湯へ行く。  間取りはキッチンと部屋がひとつ。1Kというやつだ。周辺にはスーパーやドラッグストア、ホームセンター、ガソリンスタンド、コンビニと、徒歩圏内でなんでも揃う立地だった。  シャワーからあがると、アルバイト先のコンビニから拝借してきた、廃棄の弁当を電子レンジで温めて食べた。正直、廃棄するにはもったいないと、常々思っている。  店長の話では、運営本部が値下げなどを渋っているらしい。しかし俺としては、食費が浮くので非常に助かっている。  食べ終わると弁当のトレイを洗う。そのまま捨てればいいようなものだが、臭うのが嫌だったし、何故か洗いたくなってしまう。  座椅子に座って、コタツ机の上に置いてあるノートパソコンを立ち上げた。パソコンは素人同然である。やり方もよく知らない。友人から譲ってもらったので使っているだけだった。その友人も仕事があると言って、県外へ行ってしまった。他にそれほど親しい友人はいない。  ネットでニュースを観るのが習慣だった。ゲームなどはまったく興味がない中学や高校の頃は熱中してきたが、いつの間にかやらなくなった。たまにスマートフォンのゲームをやるくらいだ。それも暇つぶしでしかないし、楽しいと思ったこともない。  ネットのニュースにあまり明るいものはなかった。政治では相変わらず、不毛な議論が繰り返され、野党が与党の揚げ足取りに躍起になっている。経済では近い将来、人間の仕事がAIに置き換わり、人の仕事がなくなっていく。弁護士や銀行員も例外ではないこと。そんなニュースばかりが眼についた。  ある程度ニュースに目を通すと。インターネットの求人サイトを開く。次の求人情報を探すためだ。求めているのは工場関連の仕事だった。  今のコンビニの仕事は、ながら仕事が基本だった。品出しをしながらレジ。レジを打ちながら、ファーストフードの調理。発注をしながらレジや在庫管理。もちろんできるのだが、ひとつの仕事に没頭していたいと思っていた。ただ、今は工場関連の求人は少なかった。  検索しても、俺は求めている職種は見つからなかった。ふと時計を見ると、すでに0時半を回っていた。寝るのはいつも、深夜1時か2時である。仕事が13時から22時まで。そうしたシフトなので、自然と就寝時間も遅くなる。  嫌々とこの生活を続けている訳ではない。こうなってしまったのは、自分にも責任があるからだ。  兄と姉がいた。二人とも学業の成績がよく、高校や大学も有名どころを出て、地元の一流企業に就職している。  そうした上の二人に比べて、俺は劣等生の見本のようなものだった。毎日友人たちと遊び、勉強もろくにしなかった。運動だけはできた。しかしそれは進学や就職には何の役にも立たなかった。  父や母は、駄目な末っ子を甘やかして育てたと思う。姉が厳しいので、どうにか歯止めがかかったという感じだ。反対に、兄は優しかった。  それでも優秀な兄と姉がいるということは、常に比較対象に晒されるということだった。兄はあれができた。姉はこうできる。甘やかされても、周囲は当然のように比較をしてくる。それが嫌で常に反発し続けていた。  高校を卒業しても、遊び惚けていた。実家で暮らし、アルバイトをしながら、稼いだお金をすべて遊びに使っていた。いい加減にしろと、姉にこっぴどく怒られたこともあるそれでも無視して遊び続けていた。何の制約も受けずに遊び続けるのが、ただただ楽しかった。  転機を迎えたのは二十歳になる年だった。一念発起したこの年の春、地元でスーパーマーケットを展開する企業に就職した。  店舗勤務の平社員で、日配品を担当する部門に配属された。その時の上司が厳しい人だった。言葉遣いから身なり。普段の生活態度から何もかも指摘され、ミスをするととことん責められた。  入社当初は精神的に追いつめられ、何度も辞めようと考えた。仕事に行くのが嫌で仕方なくなり、休日になると身体が軽くなった。1年後にその上司が別の店舗に異動になった際は、非常に嬉しかった。  その頃になって、実家を出て、入れ替わるように兄が結婚と同時に、両親と同居をはじめた。  今考えると、あの上司の厳しさが、社会人とは何か、労働とは何かを自分に教えてくれたのだと、はっきりとわかる。あの厳しさがなければ、まだまだ甘ちゃんのまま人生を送っていたはずだった。  接客や販売。品出し、発注・在庫管理、伝票処理、売場の展開などが主な仕事だった。そういった商品を、どう展開すれば売れるか。売場のレイアウトを考えるのは好きだった。とにかくボリュームをつけて目立たせること。行き着いた答えはそこだった。  それほど大企業、という訳でもなかったので、働きぶりが認められて、部門主任に昇進した。  その頃から人間関係に悩むようになった。自分より年配の人が部下になることも珍しくなかった。距離の保ち方がわからなくて、衝突したこともあった。パートタイマーやアルバイトの要望を聞き入れながら組むシフト。その調整も頭を悩ませた。  部門会議でも、売上に対するプレッシャーを掛けられ、自由にやらせてもらえた平に戻りたいとも思った。  それでも何とか続けていたが、体調を崩すようになって、二十二歳になる年に退職した。理由は一身上の都合というやつだ。ちょうど新卒の正規社員が入ってくる時期だったので、上手く辞めることができた。  わずかな貯金を切り崩しながら生活していた日々が続き、心配した兄が生活費を振り込んでくれたこともあった。  体調が安定したものの、地元は就職難に見舞われていた。なかなか就職が決まらずに、貯金が底をついた。  やむを得ず、無料の求人情報誌に掲載されていた、コンビニエンスストアの深夜勤帯の募集に応募した。頭の薄い、人の好さそうなオーナーに面接され、すぐに採用された。コンビニを選んだのは、深夜の時給と昼間自由に動けること。あとは楽そうだったからだ。  しかし現実はそれほど甘くなかった。確かに時給はよかったが、深夜は客足が少ないこともあり、ほぼすべての雑務が組み込まれていた。  コーヒーのマシンを含むファーストフード品の什器の洗浄。在庫の補充。さらに雑貨、加工食品、冷凍食品、乳製品やチルド飲料、ソフトドリンク、雑誌・新聞など、すべて深夜の納品だった。そして店内と店外の清掃。すべての雑務終えた頃には、夜が明けていた。  救いだったのは、スーパーの業務とコンビニの業務に共通点があることだった次第に発注や売場展開も任されるようになり、時給も上がった。それでも正社員の時と比べて、手取りは少ない。  一応生計を立てることは出来ている。しかし納税も保険料の支払いも、手取りから支払うと、一気に金が飛んでいく。さらに車検や住宅の更新料。そこへ追い打ちをかけるように、貰えるかわからない年金の支払い督促も届き、国に殺されるのではないかと思った。  ふと時計を見ると、すでに1時を回っていた。のろのろと座椅子から腰をあげると、台所に行って、電気ケトルでお湯を沸かした。マグカップ一杯分だったので、お湯はすぐに沸いた。マグカップにココアの粉を入れる。お湯を注ぐと、甘い香りが鼻をついた。  そろそろ春が近づいているとはいえ、まだまだ寒い日々が続く。眠る前に温かいものを飲むと、不思議とよく眠れた。部屋に戻ってココアを口に運ぶ。  今年の降雪量についてのニュースが目を引く。今年は雪が多くて大変だった。都心では雪が降るとロマンチックなどと騒がれるが、降雪量の多い地域にに住む人間からすれば、雪など降らない方がいい。都心で雪が降り、人が転んでニュースになっているのを見た時は、目を疑った。こちらでは日常茶飯事だ。  マグカップを流しで洗い、そのまま歯を磨く。一人暮らしでは洗い物や洗濯物が溜まるというが、俺はそうしたこととは無縁だった。食器だけでなくトレイも必ず洗うし、洗濯もこまめにする。  午前中は寝ていて、午後は仕事に出るので、基本部屋干しになってしまうが、部屋干しに対応した洗剤も多くあるので、問題ない。  洗い物を終えると、部屋に戻って布団に入る。リモコンで室内灯を消す。灯りがあると眠れないタイプだった。音などはそれほど気にならない。  闇が視界を覆う。まだ暗闇に目が慣れていない。一切の光が差さない、暗闇。徐々に目が慣れると、そこに広がるのはいつもの自分の部屋だった。  目を閉じる。また、暗闇に包まれる。声が聴こえる気がする。ふと懐かしい感覚に包まれる。暗闇に安堵したことは一度もない。それでも暗闇だけが、自分と違う世界を結ぶ、確かな線だった。  わずかに耳に残る声。以前と比べて遠くなっている気がする。このままどこへ行くのか。それは自分の置かれている現状であった。暗闇に不安を抱く。そして同時に、何かを闇に求めている。
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