くろがねマスク

4/7
前へ
/59ページ
次へ
 じゃあね。ばいばい。  そんな声が耳に入ってくる。下校中。コンビニで買い食いしていた高校生たちが、コンビニ前で散会していた。  店外に設置されているゴミ箱のゴミをまとめる。不思議なもので、このゴミはだいたい決まった時間にいっぱいになる。時間帯ごとに売れる商品も、そして捨てられるゴミも、すべてが人間の生活サイクルと結びついているのだろう。  時間という概念がある以上、人は時間に沿って行動する。だからゴミが捨てられる時間も決まっているのだ。  ゴミの袋を締めようとした時、作業着を着た中年男性が近づいてきて、ゴミの袋の口に、ゴミを投げつけるように捨てていった。何かひと言あってもよさそうなものだが、二年もやっていれば慣れてしまう。これぐらいで腹を立てていたら、正直キリがない。昔に比べたら辛抱強くなったものだ。  気を取り直して袋の口を締めようとすると、また別の作業着を着た男が近づいてきた。今度は若い。強面で顎鬚を蓄える巨漢だった。 「ゴミいいですか?」 「はい。どうぞ」  袋の口を開ける。お昼に食べたのであろう空の弁当のトレイが入った袋が、ゴミ袋に投入される。ただ入れるだけでなく、奥の方まで丁寧に押し込んでくれた。 「ありがとうございます」  強面の巨漢はそう言って頭を下げ、店内に入っていった。こういうのを目の当たりにすると、人を外見で判断してはいけないのだなと、つくづく思う。  感じの悪いお客もいれば、気持ちのいいお客もいる。それが接客業で、これはもう慣れるしかないのだ。  ゴミを片づけて店内に戻る。レジ内の洗面台で手を洗う。作業切り替え時は必ず手を洗うことが、マニュアルに記載されている。  たしかに衛生面では重要なのだが、基本的にコンビニエンスストアは、従業員の健康面を考えていない。手を洗うことで、手荒れが悪化して通院している人もいるし、ラップのかかった容器をレンジで温めて、火傷した人もいる。本部は売上追及がすべてだ。末端のアルバイトの労働環境には無関心である。もっと言えば、オーナーの労働環境にすら関心がないのだ。  時間は夕方。16時45分頃。17時半を回れば、仕事を終えた人たちが、コンビニに集まってくる。その時、コンビニの駐車場も車でいっぱいになる。 「ちょっといい?」  福ちゃんが事務室の扉から顔を出し、声を掛けてきた。俺はパートさんにレジを頼んで、事務室へと入った。  事務室の中で女の子がひとり、ぽつんと立っていた。黒縁の眼鏡をかけて、薄いピンクのマスクをしている。身長は当然俺よりも小さい。160センチくらいだろうか。黒い長い髪を後ろでまとめている。服装はチャコールのチノパンツに、コンビニのユニフォームの下には白いブラウス。眼鏡の下に見える丸い瞳が、じっと俺を見つめていた。 「今日から入る、川端彩佳さん。えーと、二十一歳だっけ?」  福ちゃんが窺うように訊く。しかし女の子の反応はない。その視線は俺を見つめた後、床に向いた。深呼吸しているのか、呼吸の音が大きく聞こえた。 「今年で、二十二です」  福ちゃんが少し困った表情をした瞬間、絞り出すな声が聴こえた。体調がすぐれないのか、目にも力がない。前髪と黒縁眼鏡、そしてマスクがこちらの視線を遮るようにしている。それはなんだ。ATフィールドか。いや、鉄壁の城砦。くろがねマスク。そんな言葉が浮かんだ。 「大丈夫?」  顔を覗き込むようにして、福ちゃんが訊いた。何回か頷き、「大丈夫です」という返事が聞こえた。 「これにかけてください」  とっさに俺は事務室の椅子を運んできていた。いつ身体が動いたのだろう。つい今しがたのことなのに、思い出せない。 「あ、ありがとうございます」  仕切り直すように、福ちゃんが咳払いをした。顔色は悪くなさそうなので、一時的なものかもしれない。 「え、とね。こちらが、夕勤帯で一緒に仕事することになる、高橋大翔さん。この店一番のベテランだから、わからないことは俺か彼に訊いてもらえば大丈夫です」 「高橋です。よろしくお願いします」 「川端です。よろしくお願いします」  一礼した俺に対し、川端さんは椅子から立ち上がって深くお辞儀した。福ちゃんが500ミリリットルのミネラルウォーターを用意した。多分自分で飲もうとしていたのだろう。筋トレに燃える福ちゃんは、基本的にお茶かミネラルウォーターしか飲まない。 「これ飲んで。今日は自分もいるから、17時からじゃなくて落ち着いてからでいいからね」  優しく語りかける福ちゃんに、川端さんは「すみません」と言って、何度も頭を下げていた。福ちゃんは話し方とかに特に気をつけている。強面という自覚があるのだ。  俺は川端さんにもう一度挨拶をして、レジに戻った。誰かがレジに戻らないと、17時までのパートさんが退勤できなくなってしまう。出入口に近いレジに立った俺は、手を前に組んでお客を待った。  17時になり、パートさんが俺に挨拶をして、事務室に入っていった。福ちゃんはまだカウンターに出てこない。パートさんたちに川端さんを紹介しているのだろう。俺は多少レジに人が並んでも、それほどお客を待たせずにレジを回す自信がある。  レジに三人が並ぶ。レジ横の揚げ物をふたつ。中華まんをふたつ頼まれた。ファーストフード品は時間がかかる。そう思った時、タイミングを計っていたかのように、福ちゃんが事務室から出てきた。 「お次でお待ちのお客様。あちらのレジへどうぞ」  二番目にレジ待ちしていたお客の買い物かごを受け取り、福ちゃんが奥のレジへお客を誘導する。ただレジを開けると、二番目にレジ待ちしていたお客を無視して、割り込みをかけてくる人もいるので、会計する商品を受け取ってしまった方がいいのだ。  少ししてレジ待ちのお客がいなくなったので、福ちゃんの横に立った。 「どうなの? 大丈夫そう?」  大丈夫? とは川端さんのことだ。  体調不良で欠勤とは珍しくないことだが、今日は初日でしかももう店に来てしまっている。出勤前に自分の体調を把握できなかったのだろうか。 「ここに来た時は普通だったんだけどね。まあ少し休ませてもし駄目なようなら、今日は帰ってもらうことにするよ」 「22時までどうするの?」 「俺がいるよ」 「明日6時からじゃん」 「まあそれはしょうがない。でも川端さんが仕事できても、21時くらいまではいる予定だったから、別にいいよ」  福ちゃんが苦笑した。タフさが売りだと自分で言っていたが、それでも疲労は溜まるだろう。福ちゃんの体調が気になった。  事務室に入るまで、新人のアルバイトが来ることをすっかり忘れていた。川端さんの姿を目にしてすぐに思い出したが、初日からこれだとこれからの先行きが不安になる。二人だけで店を回している時に、さっきみたいに体調を崩されたらどうしようと、嫌でも考えざるをえなかった。
/59ページ

最初のコメントを投稿しよう!

71人が本棚に入れています
本棚に追加