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7.清水
数分ほど気が遠くなった後、キヨは香の香りがする布団の中で目を覚ました。カガミの上着を着たまま、浴室近くの小部屋にいた。
カガミが小袖姿で布団の脇に座しているのが目に入る。
「覚めたか。」
顔を壁の方に向けたままキヨに話しかける。キヨは身を起こし、不安そうな顔でカガミに尋ねる。
「カガミ様……。最後のあれは?」
カガミはキヨの方に一瞬視線をやって、また壁の方に戻した。
「約束だからな……。話そう。
あれは私が無力な存在だと言う証拠さ。人との共生と言っておきながら、人間に絶望したこともあったと言うね。」
いつもの抑揚のない話し方が弱々しく感じられる。
「昔、『ツキオカ』の主になって暫くの頃だったか。
先代の主が産んだ『蛟の子』が寿命を迎え天地の水流が不安定になり始めた時、私は新たな『蛟の子』を産み育てる為に『蛟の儀』を行うことをその当時の村長に伝えた。数日後、妻となる娘と出会い問題なく儀式がなされる筈だった……。」
キヨにはカガミの瞳に鋭い光が入ったように見えた。
「だが、私が本当の姿になった時、娘は隠し持っていた刀を私に突き刺した。
罠だったのだ。
時の変化によって私達の存在を忘れた村人らが、私達を生贄を要求する悪しき水妖だと言い、近年の天災が私の仕業だと疑って殺そうとしたのだ。
それも他所から迎えた僧侶に助けを求め、真の教えとやらに促されて決めたことだそうだ。
館には火が放たれ、雇われの侍や僧侶共によって、従者や官女・境である館付近にいた精霊達が殺められた。精霊らもまた、土地の平穏を待ち望んでいただけだというのに。
その時私は心底から人間という種族そのものを無知で煩わしい存在だと感じてしまった。」
その言葉を話し終わる頃、カガミの赤紫色の瞳からは威圧感が消え、柔らかく少し悲しげな表情に変わっていた。
キヨは眉一つ動かさず、視線を真っ直ぐカガミに向けたままだった。
「人を……襲ったのですか?」
「……そういう事になる。館に入った者は全て絞め殺していた。
同族の命を奪われたとはいえ、これは人間への知識が未熟だったという私の咎でもあった。主として恥ずべき行為だったよ。」
カガミは蛇の姿になる。
「この話を聞いて儀式をやめる者がいるのはそう珍しくはない。
キヨ。私は、怖かろう?」
トグロを巻いて鎌首をもたげるカガミと黙ったままのキヨ。
見つめ合ったまま両者の表情は変化しない。
ーわざと怖がらせて私を試している?それとも私がどう反応するか怖がっている?
どれくらい長い時を生きているのか分からないこの人が。最初は不気味に感じる位に感情を滅多に表に出さなかったこの人が。包まれると私の心と体がとてもちっぽけに感じる位、体が大きく感じられたこの人が。
その体に見合った、いやそれ以上のものを背負って戦っている。
キヨは小さく微笑んだ。
「いえ……。違うんです。」
キヨは布団から出て、カガミの下顎に両手でそっと触れた。カガミは肩をくすませるように首を高く上げる事を止めた。
「カガミ様……。あなたが感じた通り人間はそうなのかもしれません。」
「私は自分の意志とは関係なく故郷の人々に生贄に候補させられました。しかも最終決定を下したのは両親でした。私は兄弟の中で女では一番下で、貧しい村からの口減らしには丁度良い存在。しかも『生死はどうあれ守り神の嫁にさせた』という正当な理由さえあれば両親も心を痛めず、私も親孝行できたと納得してくれると思ったのでしょうね。」
キヨは薄っすらと笑っていた。過去の痛みなどもう笑い事なのだと思うことで感情を抑えようとしてるようにも見えた。
「もちろん、私と同じような娘はこの世に五万といるでしょう。でもそれを理由に、それが当たり前の今の世だと言って深く考えることをやめてしまう程人間は人間同士の中でも身勝手で弱くて愚かなんです。
貴方程の方が呆れるのも無理がないほど。
だから、いっそあの人たちがいる人間の領域なんて守らなくたって・・・。」
「・・・キヨ。」
気がつけばキヨの目から止めることが出来なかった雫が頬に流れていた。カガミがそれを小さな舌に吸わせる。
「キヨ。人であるお前までがそのようなことを言うとは、悲しいではないか。」
「カガミ様・・・、今現在の貴方は精霊達のことだけでなく、こんな人間の領域も守ろうとしている……。
過去にあんなことがあったのに何故ですか?」
カガミは少し間をおいてから話し始めた。
「……最初はこの地の主として私と同じ精霊や獣達の為に『ツキオカ』を守るそれだけでいいと思っていた。
だが、人間達に裏切られ人間を蔑むようになった後、別の人間に助けられた。
幼い子供と若い母親。それも私を殺そうとした者たちが住んでいた村の外れに住む貧しい家族だった。
私が『蛟の子』無しでどうにか精霊達の領域だけでも守ろうとして術に失敗し傷を負った時、その人間達は私の本当の姿を恐れずに尽くしてくれた。
『あなたが現れた時、日照りの畑に雨が降ったんです。それに雪のように白くて綺麗で堂々としている。
きっとここの守り神か何かでしょう。』と言って……。私たちを深く知らず、確かな根拠も無いはずでありながら……。
しかし、その親子もやがて潤いを無くして荒れた土地のせいで命を落としてしまった。人に裏切られた私は、あろうことか今度は自分から尊き人間達を裏切ってしまったのだと気付いた。私を守り神だと信じてくれていた者を……。
それをきっかけに、私はただ精霊であれ人間であれ汚れ無き心を持った者までを『ツキオカ』の天災や穢れで死なせまいと誓い、再び人と和解し合う道を選んだのだ。」
キヨは顔を上げ、カガミが話し終わった後も黙って考え込んでいた。
「キヨ。人とは愚かな者もいるかもしれない。
しかし、今はお前達のように愛おしいと思わせる者もいるのだと信じている。いつぞやの時のように……。お前が私を抱き入れてくれた時のように……。」
キヨは床に伏せて一礼をした。
「愚かなことですが、人でありしかも塵のような存在の私にはあなたの主としての苦しみは完全にはわからないかもしれません。
でも、『ツキオカ』そのものだけでなく、大切なものを沢山救うために見えぬ所で怒りや憎しみと戦ってる貴方の傷の痛みを和らげることができるのなら・・・、未だ両親達を心から許すのは難しくてもあなたの手助けをすることでどこかの幸せな家族を守れるなら・・・、あなたの妻になります。」
息を切らせたキヨが顔を上げると、カガミがキヨの肩を抱くように体にゆっくり巻きつき、耳元で呟いた。
「ありがとう。
やはりお前は、傷つきやすいが濁りを押し流す力もある清流のような娘だ。」
キヨは肩から後ろに手を伸ばし、カガミの額に触れた。
「儀式が終わってもずっと一緒にいてくれますか?」
「お前は天寿を全うした後も忘れられない『つがい』だよ。」
キヨはカガミの口元に火照った頬を押し当てた。
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