僕と先輩と呪いの話

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 言いながらクッキーに手を伸ばしている先輩につづいて、一枚を取る。いつもと少し分量を変えてみたけど、香りは悪くない。焼き色はほんのり狐色。噛めばサクッと音がする。なかなかにいい出来だ。しいていうならいつものより食べカスがでやすいかも。僕は右手に持ったシャーペンをくるくるとまわす。 「……名前って呪いですからねー。良くも、悪くも」 「呪い」  独り言のように呟かれたその響きが、今一つ飲み込めなくて僕はそう、繰り返す。先輩はんー、としばらく悩んだあと、いつもよりもさらにゆっくりと 「例えば、強くなってほしいとか、輝いてほしいとか、そんな思いを一生押し付けるのがー、名前です。しかも、滅多なことでは変えたり隠したり出来ないものです。その子はその名前で呼ばれ続け、認識されつづける。  だから、どんな祝福も、祈りも名前にした時点で、その人の生き方を左右する時点で呪い、なんだと思いますよ」  そう言って、先輩はまたクッキーへと手を伸ばす。呪い、呪い。その単語を繰り返す。言いたいことは分からないでもない。 「でも、それは」 「ふふー、そういえば後輩君は霜月のお家でしたねー。あまりぴんとこないならこういいましょう。あだ名なんかの呼称も同様です。 私が後輩くんを後輩くんと呼ぶ、それを聞けばもうみんなから、それこそすれ違っただけでも、私たちの関係性は先輩後輩で定められる。それでもって、ごくごく普通の先輩後輩らしくないとおかしいなって思われるんです。窮屈な話ですが、私たちは自然にそんな認識を互いにしている。それが私のいう呪いです。誰かに自分を定義されること。そうあれと願われること、そうじゃないとおかしいと思われること……もちろん、基本的にはあだ名も名前も、好意的な意図をもってつけられていますから、結果としては悪く働くことは少ないかもしれないですけどねー」  遮られた言葉をのみ込む。 後輩君という呼び名に名前ほどの思いや願いはない。僕が後輩なのは事実だし。それでも、僕はその言葉だけでいろんな人に後輩であることを期され、定義される。部室に来る前にみた少年を一年生と断じたのは先輩と呼ばれていたのが同級生だったからだ。先輩が同輩やら後輩になるのが嫌なのも、きっと僕が先輩を先輩と認識してしまっていることが一因だ。 きっと、勝手に他人を定義して、されている。先輩の言ってる通りに。 「人々に名をつけることを生業としていた昔の霜月家は特に、その思想が強かったと聞いたことがありますよー。本当に昔、それこそまだ政の中心が今とは違った頃などは本当に名も姓も持たない、持たないことにこだわる一族だったとか」 「たぶん、そう。そうやって、誰かを呪う代わりに、名前を与える自分等はどこかに肩入れすることのないように、肩入れされないようにって、呪わないように呪わないようにって、名前を持たずにいて、子供に名前をつけなければならなくなった後も何百年も同じような名前を使い回してる」  ずっと同じような、ありふれた名前を使えばそれは個人個人に対する呪いにはならない。恐らく、昔の人らはそう考えたんだろう。けど、今じゃその方がきっと重い。僕を無理矢理に一族の流れの一部にして、困らせて、冗談じゃない。もう昔々の話なのに古い家ぶっていつまでも時代遅れなネーミングを貫いてる。 「なるほどー名前の由来ですかー」  いつのまに覗き見たのだろうか。先輩はそう言ってふむふむと何度かうなずく。 「お家のことを書いちゃってもいいと思いますけどねー。もし、それが嫌なら、うまく飲み込めないのなら。 ――自分を呪っちゃえばいいんですよ。 僕の名前の意味はこうだって決めて、知らしめてしまえばいい」  窓の外から傾き始め日の光が差し込んで、先輩の姿はほとんどシルエットがみえるだけだ。ただ、様子を伺われている、そんな気がする。僕の動作を、次の言葉を、あるいは考えを。 僕は、ゆっくりと息を吐いてから、ルーズリーフを一枚取り出す。言葉を書いて、消して、もう少し長く書いて、一部を書き直して。それは、途方もない作業だった。時には図のような、記号のような思い付きをも僕はできるだけ間違いのないように、記して、直した。 先輩はなにも言わずそこにいた。それがすごく僕の定義するところの『先輩』らしかった。 「下校時刻です。許可のない部活動の生徒、まだ教室に残っている生徒は事務室へ鍵を返し、下校してください」  二枚目のルーズリーフがそろそろ埋まろうかという頃に、下校時刻を知らせる放送が聞こえて、僕は壁にかけられた時計をみやる。 「施錠しちゃうので荷物かたづけちゃってくださいねー」  カーテンを閉めながら先輩がそう言って、僕は慌ててプリントとルーズリーフを鞄にしまいこんだ。残っていたクッキーのうち一枚を口にいれ、まだそれなりに残っていた残りは包みなおした。プラスチックのコップはゴミ箱にやって、部室を出る。先輩が電気をしめて鍵をかけるのをまって、僕は歩き出す。グラウンドを見れば、大会を控えた運動部たちがまだ活動しているのが見える。 時おり聞こえる掛け声も聞こえるのは渡り廊下の辺りまでで、教室棟に入れば僕らのほかに人がいないんじゃないかと錯覚しそうになるほど静かだ。下駄箱のあたりまでいけばまばらに人はいるものの、朝や昼間のにぎやかさからは想像できないほどに寂れてみえる。 「後輩君、行きますよー」   声をかけられて後ろを振り返る。先輩と目があって、僕は思わず、小さく声を漏らした。 「どうかしましたかー」  先輩はきょとんとして、それから左右を見回す。 「しおんさんが目開けてるの、久々にみたから」 「目を瞑ったまま外を歩くのは難しいのでー」  校舎を出たところで風が吹いて、先輩の長い髪がぱっとまいあがる。顔にかかった髪を戻すのに気をとられたのかわずかにつんのめった先輩は、慌てて体勢を立て直すと、僕が笑いをこらえてるのに気づいて非難の目を向けてくる。 「室内でも目開けといた方が転ばないと思うんだけど」 「目からの情報は強すぎて、それを見ちゃうとおろそかになるものがたくさんありますよー。鳥の声とか、雨の匂いとか、山道の歩く感じとか」  ふふんと自慢気に笑って見せる先輩はいつも以上に子供っぽい。ついさっき、たまには『先輩』らしいこともできるじゃんとか思って見直したのに、その評価はすぐに撤回されそうだった。 「後輩君はー、翡翠色あたりですかねー」 「えっと、何が」 「さて何がでしょう? ではでは、またー」  平日に人がいるのをほとんど見たことのないような古いバッティングセンターの前で僕らはわかれる。先輩の家は丘の上で、僕の家はここから十分ほどバスで揺られた先だ。 五人ほどしか乗客のいないバスに乗り込んで、僕は考えを巡らせる。 自分を呪うのは、思った以上に難しい、と思った。
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