菫色の人

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庭にはためくシーツや衣類を見上げながら、小夜は皺の深い顔に笑みを浮かべる。久方ぶりの晴れ。室内に洗濯物がないというのはこうも清々しいことだったか。見上げた空には雲がぽつぽつあるものの、それが、しばらく見慣れていた灰色ではない。それだけで気分が高まる。 今日こそは滞ってしまっている手紙の返事を書こう。そう決めて、自室に戻ると文机の周りに散っていた折り紙を拾い集めて脇に寄せ、代わりに便箋と封筒を並べる。便箋や封筒をしまい込んでいた木箱から、いつもよりもいっそう木の香りがするのは降り続いた雨のせいだろう。雨の匂いは嫌いではないが、梅雨の季節は家事も文通も滞りがちだ。この間は元気な小夜には珍しく寝込んでしまったし。 ええと、これは美枝さんに、芳子さんはお孫さんができたって報告が来ていたし、明るい色の便箋と封筒を、佐吉さんとは何を話していたっけか。おぼろげになりがちな記憶をよせあつめ、しまい込んでいた文を読み返し、返す話題を決めていく。 それにしても、と小夜はため息をついた。長いこと便りがない人がいる。毎月はじめに便りをくれていた律儀な人だ。もしかしたら、前に返事をしたときに住所を書き間違えたのかもしれない。一度不安になると、夫に先立たれてから広すぎる家に一人であることも相まって途端に落ち着かなくなる。そういえば、あのころ……小夜の夫が亡くなったころしきりに励ましてくれたのもあの人たち夫婦だった。小夜は縦長の封筒を取り出す。飾り気のない、白の封筒。中身の便箋も縦線すらはいっていないシンプルなものだ。取り出して、開けば力強い文字が菫色のインクで書かれている。 昔の仕事仲間からの手紙だ。同じ市内に住んではいるのだが、もう何年も会った覚えがない。ただ、手紙だけは小夜が友人らと文通を始めて数ヵ月もしないうちからずっと、つまり三年ほど欠かさずにやり取りをしていた。それが、孫の小学校入学に、梅雨にと気をとられているうちに最後の便りは三ヶ月前だ。電話をかけるかもう一通手紙をと思ったが、大祓の時期でもあるし、多忙な頃に返事を催促するようなことをするのは気が引ける。小夜は目を瞑り、息を吐き出すとその封筒と便箋は机の端へと追いやった。 今はとりあえず、他の返事を書こう。息を整えてそう決めてしまえば、気持ちの切り替えは得意な方である。最近雨が多くて困ったことや、娘家族が遊びに来てくれたこと、その時に貰った帽子のこと、勿論相手の近況や趣味のことも。ペンを忙しなく動かしていけば、昼を過ぎた頃には返事を一通り書き終えることが出来ていた。
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