菫色の人

5/11

16人が本棚に入れています
本棚に追加
/182ページ
電車に乗り込んで整理券を取れば、昼間ということもあり、スムーズに席に座ることができた。薄紫の帽子を膝に置き、向かいの窓を見やれば道路の向こうに柳川の河川敷が流れていく。 神崎市民の重要な足である路面電車は、海辺から柳川に沿って小夜の住む旧市街へ。その後、一度市の中心部を通り、またこの川の上流、神崎川へと合流し、市の北側へと至っている。 武晴と花江の家はそのちょうど終点、神崎神社駅のすぐそばだった。さらに言うのであれば、その駅名となっている神社のほとんど敷地内である。 元々武晴は神崎神社の神主の次男坊であった。しかし、小夜や花江と出会った頃は実家を離れ、会社でもその話題を出すことはなかった。だから、小夜は武晴が寝込みがちな兄の体調を鑑みて実家に戻ろうと思う、と言ったときはたいそう驚いた。実家が伝承にも出てくる狐を祀る神崎村の神社だったことも、嫌っていたから話さないのだとばかり思っていた実家に戻ることも。 小夜の他に数人の乗客を降ろし、次の乗客を乗せ終えた路面電車がベルを鳴らして走るのを見送ると、帽子をかぶって小夜はゆっくりと歩き出す。田畑の向こう、山を背景にし、木々に囲まれた一角があって、古ぼけた標識もそちらが神社であると指し示している。ゲコゲコと蛙の声は微かに、しかし、絶え間なく聞こえる。夜にはもっとにぎやかになるだろう。昔は家のあたりでも随分と騒がしかったのだけど。石段をのぼり神社の境内に入るとその声も随分遠くなって、代わりに無機質な砂利の音が響く。それにいくらかの寂しさを覚えた。 口と手をすすぎ、お参りを済ませると小夜は左右を見回す。そばにあるはずの彼らの家が見当たらない。思ったよりも木々はしっかりとあたりを覆っている。巫女さんにでも聞いてみるべきかと小夜が思案していると、 「何か、お探しだろうか?」 と若い男の声がした。振り返れば、いつの間にあらわれたのか、小夜が気づかなかっただけなのか大学生ほどに見える青年が居る。青年は小夜が答えあぐねているのを見ると 「辺りを見回していたから、なにか落とし物でもしたのかと思ったんだ」 そう続ける。 「ああ、それは勘違いをさせてしまったようで。失せものではなく、神主の巌さんのお宅を探していたのです。用がありまして」 小夜がそういうと青年は数回瞬きをしてから、感情の読み取れない表情のまま小さく頷いた。 「なるほど。それなら私も場所を知っている。その場所からはわからないだろうが、こちらへ来てみてくれ。本殿のわきの小道を抜けたところに建物が見えるだろう? あそこに社務所と神主たちの自宅があるのだ」 説明を終え、小夜が建物を見つけたのを確かめると青年はついて来いと言わんばかりにその小道へと向かう。ゆっくりと歩くその背を追って、小夜が巌家の前に着くと青年はためらいなくインターホンを押す。
/182ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加