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今朝のことであった。
駐車場に停めてある自転車を外まで出して、いざ漕ごうと思った瞬間、足にかかっていたペダルへの感触がスコッと無くなった。抜けたといった方がいいのかもしれない。とにかく、家を出てわずか数分で俺の自転車は機能停止となった。チェーンがだらしなく垂れていた。
そんなわけでこうして汗を流しっぱなしで十何分も歩いているわけだ。
それからも歩きながら愚痴を言っていると、後ろから微かだが風を感じた。きっとその風は暑さのせいで生暖かいはずだが、その微風、そして数秒後に届いた本風は俺の身体を背中から押してくれるような風だった。
その風に気づき、後ろを振り返ると雪が猛スピードで自転車を漕ぎながらこちらに近づいていた。
そして俺の横まで来て車輪とブレーキ、アスファルトと車輪、どちらかは分からないがキュッと音を鳴らして停車した。彼女は頭の汗腺全てから額に、そして頬へと伝っている汗を気にも留めず、こちらへ笑顔を見せた。夏休みの部活のせいか、外で遊びまわっていたのか、彼女の肌はきれいな小麦色をしていた。そのせいでひときわ彼女の白い歯に俺の視線は集中してしまった。彼女の笑顔は水面に反射する光のようだった。
「あれ、なんで今日自転車やないん?」
少し息を弾ませながら彼女は首を傾げた。
「あれは今朝乗ろうとしたら、壊れてしまってん。ほんまツイてへんわ」
「こんな暑い日に歩きは最悪やな、ほな頑張りや」
そう言って彼女はペダルへ足をかけてここから去ろうとした。
俺は反射的にリアキャリアを掴んで綱引きをしているような体勢になった。
「おいおい、せっかく会うたのに急に逃げるってどういうことや、後ろ乗せてくれ」
「早く離して。どうせ先生に見つかって怒られるやん。私そんななりたくないわ」
「途中まででええから。頼む、このままやと学校着く前に干からびて死んでまう。そしたら一生お前を祟ってしまうかもしれへん」
俺らは道を行き交う人が見る中どちらも譲らず、停滞していた。
しばらく言い合った後、雪が根負けして自転車を漕ごうとするのをやめた。二人とも先ほどとは比べ物にならないほどの汗を掻いていた。
「もうええわ。こんなことしてる方が暑なる。けど校門の手前までやで」
そう言って、リアキャリアに乗せていたカバンをカゴに入れて、俺の席を確保してくれた。俺はそこにまたがり二人は坂を上り始めた。
自転車の後輪はアスファルトからの熱と、俺の体重で悲鳴を上げていた。前を見ると上下する肩、雪の背中から熱気を感じる。それでもその熱気は前方から吹き付ける風によって暑さを感じず、心地よいものに感じた。嫌いではなかった。
その風に委ねるように体をそらすと、目前には後ろへ流れゆく樹葉、そして、その木の葉たちでも隠し切れない青空が遠くに見えた。俺は春を感じた。胸の中心を何かでくるまれたような気分だった。
「雪、顔上げて見てみ! ここだけ春みたいや」
雪のつむじがこちらを覗いた。何も聞こえないが、雪の表情が想像できた。
俺たちは暑さなんか忘れて前に進んだ。自転車は軽やかだった。
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