第参話

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 アシュリーはぽかんと口を開けた。その横で、サラは、気まずそうにアシュリーから視線を逸らして、体を縮こませている。  「……は? 誰と、誰が兄妹だって?」 「えー、ですから、サラと閣下―カツラ卿は『血縁』的には兄妹になるんです。」  アカネは疑問符を飛ばしているアシュリーが噛み砕いて理解できるように、ゆっくりと説明した。アシュリーは呆然としながらも、頑なに視線を逸らすサラを、上から下まで確認するように眺めた。  魔族は生殖能力を持ち得ないため、【竜族】の体を介してこの世界に誕生する。アシュリーもアンナも、先人の魔族たちもそうだった。そして、魔族としての意識を持ち、魔族の両親が迎えに来るまで、ひっそりと竜族に勘付かれないように、身を隠しながら生きるのだ。  アシュリーはサラを引き取った時のことを思い出そうとするが、何故かあまりうまく思い出すことが出来なかった。  ただ、暗く湿っぽい閉じられた空間の真ん中で、目の前にいるよりも少し幼い風貌をしたサラが、じっと観察するかのごとくアシュリーを眺めまわしていたことだけは、はっきりと思い出すことが出来た。  「……似ている、と言われたら似ているような気もする……。」 「師匠、僭越ながら私とカツラ卿は異母兄妹です。彼は父親に似ていますが、私は母親に似ているそうですので、残念ながら身体的特徴としての共通点はあまり見られないと思います。」  眉をひそめ、唸るような声でアシュリーがそう言うと、サラはやけにきっぱりと、自身の師の言葉を否定した。心なしか、機嫌はあまり良くないように見えた。  「ひっでーなあ。折角可愛い妹を心配してやったってのに。」 「本当にその通りですよね。おい、サラ! 閣下に心配していただけるなんて光栄の極みだぞ! もっと感謝を……って、うわあああ!? 閣下!?」  うんうんと首ふり人形のように大きく頷いていたサクヤは、ふと違和感を抱いたのか、自身の真横に視線をくれた。途端に、のけ反って目を剥くサクヤにつられて、その場にいる全員が年若い軍部の青年の隣に、いつの間にか立っていた【軍部大将】を視界に入れた。  「か……カツラ!? 何をしにきた!?」  ぐるると唸り声を上げそうなほど警戒心をむき出しにするアシュリーに向かって、カツラはにっこりと笑う。  「ん? そりゃあ、可愛い妹との久々の再会と、議会で俺に大敗北を喫したアシュリーちゃんの見舞いに来たに決まって……なあ、二人とも露骨に嫌そうにするの止めてくれない? 泣くぞ、俺。」  師弟揃ってゴミを見るかのような冷たい視線を向けられたカツラの顔が引きつった。へらへらと気の抜けた笑顔を浮かべていた表情が、あっという間に泣き出しそうになる。そのような三者三様の姿にアンナは苦笑しつつも、こほん、とひとつ咳払いをして、とことことカツラの元へ向かうと、つんと袖を引っ張った。  「マリアージュ卿。」  十歳程度の姿をしているアンナの視線に合わせるため、長い脚を折り曲げてかがんだカツラに対し、アンナはにっこりと笑う。すると、その体勢のまま、カツラはアンナに向かって敬礼をした。  「お初にお目にかかり、光栄でございます。」 「いいよ、そんな堅苦しくしないで。見てたよ、議会での君の様子。初陣だって聞いてたけれど、とてもそんな風には見えなかったなあ。」  将来有望だね、とカツラを褒めるアンナを見て、アシュリーは内心不貞腐れた。とても面白くない。一方、カツラはへらっと笑うと、照れたことを誤魔化すかのように頬をポリポリと掻いていた。  「いえ、お……私のような若輩者など、まだまだですよ。」  アンナは、カツラの様子を目を細めて見つめていた。まるで、彼の内側にある、「何か」を見通そうとするように、じっと、執拗に、彼を見つめ続けていた。しかし、アンナがカツラの中に潜む「何か」を捕える前に、カツラはにこっと愛想良く笑って、口を開いた。  「まあ、世間話はこれくらいといたしまして。……実は、本日、私がこちらを約束もなしに訪れたのは、マリアージュ卿とアシュ……ブラックモア卿にお話があるためなんです。」  アシュリーとアンナは、二人揃ってきょとんとした。カツラは、そっくりな表情になる二人に、にこりと愛想笑いをした。  「話?」 「そうだ。さっき、サラが俺の妹だって話を聞いた時に、もう一つ重要な話をしてただろう?」  アシュリーが訝しげに問いかけると、カツラは鷹揚に頷いた。カツラの言葉を頭の中で反芻しながら、アシュリーは先程の話を思い返して、ああ、と合点のいった顔をする。アンナも同じく、思い至ったようであった。  「元総裁殺害事件か。」 「それそれ。」  しかし、とアシュリーは目の前に立つ青年を見上げる。  「お前がなぜその事件で、私たちに話があるんだ?」  カツラは待ってました、と言わんばかりにニンマリと目を細めると、アシュリーの鼻先に紙を突き出した。ぺらりとした薄いその紙には、枢密院の印―羽を大きく広げた鷹と、その後ろに逆さ吊りされた犬が刻印されている―が押されてあった。  「これは……。」  アシュリーが一枚の髪を見て鼻白んだ瞬間、刻印が黄金色に光り輝く。サラやサクヤたちの焦った叫び声、ニンマリとした笑みを浮かべるカツラ、何かを悟ったような穏やかな顔で微笑むアンナを全て飲み込んだまばゆい光はあまりにも強すぎて、アシュリーはぐっと目を閉じた。  瞼の裏側から段々と光が失われていく頃になって、ようやくそろそろと目を開いたアシュリーは、辺りを見回して、がっくりと肩を落とした。  そこは、何も無い空間だった。  広さも高さも、奥行すらもわからない、「なぞのばしょ」。空中に不自然に垂らされた明かりが申し訳程度に空間を照らすが、残念ながらアシュリーは自身の周り、半径二メートル以内の空間しか目を凝らしても見ることが出来なかった。  「わあ、これ、すっげーな! ……おーい、アシュリー。まあまあ、そう落ち込むなよ。」  突然横から聞こえてきた声に、アシュリーはびくっと体を震わせた。しかし、それがこの空間に呼ばれる原因になった男のものであると理解した途端、はあ、と非常に重たいため息をついた。 「……お前と私が呼ばれたということは、これはやはり……。」  けたけたと陽気に笑うカツラは、アシュリーと同じく豪奢な椅子に座っていたが、何故か肩の辺りから腰元まで、頑強な長く太い鎖でグルグルと縛り付けられていた。まるで動くことが出来ない様子だが、カツラは器用に椅子の後ろ脚でバランスをとって、船をこいでいた。そのまま後ろに倒れてしまえ、と意地の悪いことをアシュリーは思ったが、カツラは倒れるどころか鼻歌まで歌い出す始末である。アシュリーは小さくため息をつくと、隣の軍部大将から視線を逸らし、改めて自身の状態を確認した。カツラと全く同じ状態だった。じゃら、と鎖が擦れ合う嫌な音がアシュリーの耳にこびりつく。  アシュリーは力なく項垂れた。  「いや、ちょっと待て。私だけ、足首も鎖が巻かれてるんだが。」 「お前、暴れるからじゃねーの? お爺ちゃんのくせに血気盛んなんだから。」 「うるさい、クソガキ! 私はお前のお祖父ちゃんになった覚えなんぞないからな!」 「そこじゃねーだろ! おじいちゃん違い! 感性馬鹿になってるの!?」  鎖で身体を椅子に固定されたまま、器用に喧嘩をする二人であったが、ふと、カツラはむき出しにしていた歯を仕舞うと、アシュリーに向かって問いかけた。  「お前、なんかすっげえ落ち着いてない? ここ、初めてじゃねーの?」 「お前は馬鹿か? 初めてなわけあるか。ここなら、何度も来たことがある。……ああ、気が重い。ここに呼ばれる時は、決まってあの方たちから玩具にされる時なんだよな……。こちらは真面目に仕事がしたいだけなのに。」  呑気な顔でこちらの顔を見つめるカツラに内心舌打ちをしたい思いでいっぱいになりながら、アシュリーは顔を上げると、真っ直ぐと目の前の暗闇を睨みつけた。  「……? 何か、音が聞こえるな。」  竜族特有の驚異的な身体能力で何かを感じ取ったであろうカツラの言葉を耳にしたアシュリーは、これから訪れる「災厄」に、とうとう腹を決めた。  最初は何も聞こえなかった空間に、徐々に忍び笑いのような笑い声が響き始める。くすくす、けらけら、けたけたと軽やかに笑うその声は、椅子に縛り付けられて動くことのできないアシュリー達を嘲笑っているかのような色を帯びていた。  「来たぞ、カツラ。」 「え? 何が?」  囁くアシュリーに向かって問いかけたカツラに「察しが悪い!」 と悪態をついたアシュリーは、イライラと椅子を揺らしながら、吐き捨てるように言った。  「私たちを呼んだ、あの人たちだよ! 枢密院最高冠位を戴く、この国で最も帝に近いあの二人だ!」  すると、ごぽり、と滑る水が蠢くような音がした。  はっとしたアシュリーとカツラが、自身の足元も見やると、少し離れたそこに、黒い水たまりのようなものが生まれていた。それは、ごぽごぽと音を立てながら泡立ち、蠢き、渦巻いていた。ごくり、とアシュリーは口内に溜まった唾を飲み込んだ。体が勝手に震え、冷や汗が止まらない。  「……相変わらず騒がしいのね。少しは静かに出来ないのかしら、あんまり五月蠅いと、そのお綺麗な顔を耕してミンチにしてやるわよ。」  鈴が転がるような可愛らしいものなのに、相反する冷たく暗い圧迫感を滲ませた声が、アシュリーとカツラの鼓膜を鋭く貫いた。アシュリーは、目の前の暗い水たまりを凝視する。  ――来た。  「キャロルコリン卿。」  闇を煮詰めたような、黒々とした水たまりの中から姿をするすると現した、青みがかった黒髪を腰元まで伸ばした少女に向かって、アシュリーは深く頭を垂れた。カツラも顔を青く染めたまま、アシュリーに倣う。フリルがふんだんに施された袖から伸ばした小さな手で切りそろえられた髪の先を弄っていた少女は、アシュリー達の様子を一瞥すると、フンと鼻を鳴らした。  「情けないわね。体が震えているわよ、二人とも。先程までの威勢の良さはどこに行ったのかしら。」  皇国の三大機関にして最も【帝】に近い位置に坐する枢密院の現トップ、枢密院委員長であるキャロルコリンを、アシュリーは恐れ多い気持ちで見つめていた。容姿は十代とようやく名乗っても許されそうなほど幼く愛らしいのに、言動はどこまでも冷淡で酷薄なものである。彼女もまた、アシュリーと同じく魔族出身の者のようで、強大で強力な魔術の使い手であった。  「ボゥも隠れて見てないで、姿を現しなさいな。話が進まないわ。」  ちら、と宙に視線を走らせたキャロルコリンが淡々と言葉を紡ぐと、再び忍び笑いが空間に響き渡った。段々とけたたましくなるそれにカツラが顔をしかめたのを、アシュリーは横目で見た。  「あっはは、やだもう、キャリーったら、怖いんだから!」  きゃらきゃらとした笑い声と共に、ポン、と軽く破裂音がして、キャロルコリンの隣に彼女と同じくらいの年頃の少女が姿を現した。クリーム色の髪をボブショートにまとめた少女は、縛られて動けないアシュリーとカツラを視界に入れると、意地悪く口の端を釣り上げた。  「あらあら、随分と情けない格好を晒してるのねえ、総裁殿に軍部大将殿? なあに、キャリーの趣味ってわけ?」 「違うわ。ただ、話をするのにうるさく騒がれて暴れられても困るから、応急措置として縛っただけよ。」  ツン、と鼻の先を逸らしたキャロルコリンの腕に巻きつくようにして腕を絡めた少女は、ボールドウィン。キャロルコリンと同じく枢密院の委員長である。彼女も魔族であるらしく、永い時を生きている大魔女であった。  「カツラから聞いているかしら。貴方達が、何故、ここに呼ばれたのかを。」  アシュリーに向かって、底なしの沼のような暗い瞳を向けたキャロルコリンは、「元総裁襲撃事件についてでしょうか。」 としおらしく告げられたことによって、いささか機嫌をもちなおしたようだった。  「あら、良かった。わかってたのね、じゃあ話が早いわ。あんたたちには、その事件に下手人をあぶり出してほしいのよ。」 「下手人を……ですか?」  思わず聞き直すカツラに向かって、ボールドウィンは力強く頷いた。  「本来ならば、それは【憲兵団】の仕事なんだけどねえ、今回はそうもいかないのよ。この事件、下手すると国家機密に関わる案件になるかもだし。」 「国家機密ですか?それは一体、どういうことで……。」 「そこはあんた達が関与するところじゃないわ。」  ボールドウィンの言葉に、少々引っ掛かりを感じたアシュリーが繰り返すが、キャロルコリンはそれをすげなく切ってしまった。あまりの鋭さに、アシュリーは思わず首をすくめた。  「この事件を迅速に処理することが、あんた達に課せられたお仕事よ。憲兵団に任せてたら、政党が全滅するのも時間の問題だわ。だから、早急に、下手人を捕まえなさい。」  有無を言わせないキャロルコリンの様子に、カツラは鼻白んだ様子であったが、そこは年の功と言うべきか、アシュリーは気丈な態度でキャロルコリンに向かって問いかけた。  「キャロルコリン卿、現在は元総裁が襲撃されているこの事件ですが、やがては対象が政党員に向けられると考えられているので?」 「万が一のことを考えて、よ。まあ、この事件の下手人は元総裁を潰すことで何らかの利益を得るようだし、危害が政党員に向けられる危険性も考えられなくは無いもの。」  くるくると毛の先をいじり回していたキャロルコリンは、ふと、その動きを止めると、今まで何の感情も浮かんでいなかったそのかんばせに、ほんのりと暗い笑みを乗せた。  「でも、それが『本当の狙い』なのかどうかは、疑問だけれどね。」  アシュリーが、キャロルコリンの言葉の真意を窺おうと身を乗り出した瞬間、静かにこちらを観察していたボールドウィンが、肩をすくめながら会話に割り込んできた。  「そろそろ時間よ、キャリー。」  ボールドウィンにぐい、と腕を掴まれたキャロルコリンは「頼むわよ。」 と言葉少なげにアシュリーとカツラにそう告げ、くるりと踵を返した。  「あ、ちょ、待ってください! さっきの話、一体どういうことで……」 「あんた達の仕事は、元総裁襲撃事件の下手人をあぶり出すこと。」  はっと正気付いたカツラが、ガチャガチャと五月蠅く鎖を奏でながら、キャロルコリンの小さな後ろ姿に向かって叫んだ。しかし、キャロルコリンはカツラへ振り返ることは、ついぞなかった。  「了解いたしました。キャロルコリン卿、ボールドウィン卿。あなた方の御意志のままに。」 「アシュリー!?」 「いいから黙れ、カツラ! このまま逆らったら、殺されるぞ。」  カツラが彼女たちに噛みついた瞬間、キャロルコリンとボールドウィンから放たれる小さく鋭い殺気を感じ取ったアシュリーは、こちらを見て信じられない、といった様子のカツラを小声で制しながら、少女たちに向かって頭を深々と下げた。  「……まあ、いいわ。」  しばらくアシュリー達を眺めていたボールドウィンは、「よろしくねえ。」 と一言告げるとそのままくるりと一回転して、この場から消失した。  一方、キャロルコリンは何も言わず小さくため息をつくと、音もなく闇の中へ消える。  しばらく少女達が消えた闇の中をじっと見つめていたアシュリーであったが、じゃらん、という音ともに胸や腹、腕を圧迫していた不快な感触が消え去ったことにより、はっと意識を戻した。  「あ、鎖が……。」  カツラの方も拘束が解けたようで、恐る恐るといった様子で身体を動かした後、カツラはガバッと勢いよく立ちあがり、ぐっと背筋を伸ばした。  「っあー、体固まった! おい、お前も伸び、すれば? 体、痛くねえ?」 「いや、それよりも、これ。」  アシュリーは、鎖が失われた瞬間に手の中にあった、枢密院の印が押印されている一枚の書類をカツラに向かって差し出した。カツラはそれを素直に受け取ると、静かに文面を読み始めた。  「この事件、軍部が関わっている可能性が出てるのか。」  アシュリーの淡々とした言葉に、カツラは意外にも噛みつかなかった。  「枢密院の今のところの見解で、あくまで可能性だけどな。まあ、俺もびっくりしたよ。もしそうだとするなら、こんなに堂々と、軍部が関係するとは思わなかったからなあ。灯台もと暗し、ってやつ?」 「何か違うと思うが……。」  政党と軍部の仲は悪いが、直接お互いに干渉することは、まず無かった。干渉してしまうと政治問題に発展してしまうし、何よりもそこから民族紛争に繋がってしまうのだ。そのため、アシュリーもこの事件は政党内の抗争か、あるいは政党に不満を持つ過激な魔族の報復かと考えていたのだ。実際は、そう考えていたかっただけではあるが。  厄介な問題になった、とアシュリーは頭を抱えたくなった。  「しかし、お前とこの問題について取り組め、とは、枢密院も無茶苦茶だよ……。」 「そりゃあ、軍部も関係してるらしいからな、これ。俺が出ないとまずいっしょ。」  先程から妙に静かなカツラに、アシュリーは何故か薄ら寒いものを感じた。  「お前、いやに従順だな。枢密院からの命令と言えど、もっと駄々をこねると思ったのに。」 「そんなことするわけねえだろ。」  カツラは訝しげな眼差しを向けるアシュリーに、呆れた視線を向けた後、ふい、と視線を逸らした。  「無理言って頼みこんだんだよ、俺。」 「……なぜ?」  アシュリーと視線を合わせないようにしているカツラの目はどこか遠くを見ていて、アシュリーは何となく気まずい思いをした。  「だからさ、言ってんじゃん。この事件は、軍部が関係してるかもしれないって。だったら、俺にも関係ある話だろ?」 「確かに、軍部のトップであるカツラには責任問題が生ずるが……。しかし、お前は魔族が嫌いではなかったのか?」  何の含みもない、純粋な疑問だった。しかし、次の瞬間、カツラからどろどろとした、重たく冷たい泥のような殺気が、ぶわりと溢れ出す。それをじかに浴びたアシュリーは、思わず、ぐっと息をのむ。  「嫌いなんてもんじゃねえよ。でも、この事件はまた別の問題なんだよ。」  ふっと、おぞましい殺気を突然消したカツラは、静かにそう告げた。  「俺は卑怯な奴らが大嫌いだ。」  じっとアシュリーを見ながら、カツラはきっぱりと告げた。アシュリーもまた、視線をそらさずに、自身より何歳も若い青年を、真っ直ぐに見つめる。  「この事件は、背後から相手を襲って殺してるような事件だろ? しかも、一歩間違えれば、国内紛争。悪質にもほどがある。いや、殺してる時点で悪質だけどな。……まあ、魔族か政党かに恨みがあるのかはわからないけど、やるなら正々堂々やれってんだ!」  何か違うような、と再び思いつつ、アシュリーは目の前の青年を不思議な面持ちで見つめていた。  議会で対峙した時とは、どこか違う印象を受けた。  「俺は、魔族は憎たらしいが、こういうのは大っ嫌いなんだよ。で、どうする? アシュリー。お前は、やるのか?」  アシュリーは口を開き、不意にのどが渇いていることに気がついた。緊張していた。  なぜ? それは勿論、アシュリーを射殺さんとばかりに睨みつけているカツラのせいだ。  多分、と考える。ここで、アシュリーは返答を間違えてはいけないのだと思った。間違えたら、カツラにこの場で、速やかに殺される。勿論、アシュリーの冷静な部分では「そんな事をするはずがない。」 とは考えている。しかし、アシュリーはなぜかそのように、一瞬でも思ってしまったのだ。  間違ってはいけない、しかし、嘘をついてもいけない。  アシュリーは唇を湿らせる。カツラは、相変わらずぎらぎらとした鋭い視線で、アシュリーを睨みつけていた。  「やるに決まっている。」 「……命令だからか?」  どこか馬鹿にしたように言ったカツラに、こくりと頷く。その瞬間、すぅとカツラの周りの温度が下がったような気がした。  「勿論、それだけじゃない。今は元総裁のみの被害だが、それだけで終わると思うか?必ず、便乗する馬鹿がいる。魔族狩りと称して、臣民に被害が及ぶのも時間の問題だろうな。」 「あっ。」  そこまでは思い当たらなかったらしく、カツラはアシュリーの言葉にはっとした。  「枢密院としては、世間に議会内の不祥事を露呈させたくないのだろうが……。我々、議会内の人間としては、臣民に被害を出すのは本意ではないだろう?」 「……当たり前だ! 魔族だとしても、臣民だからな。臣民を守るのは、俺たちの仕事だ。」  強い意志を感じさせるアシュリーの眼をじっと見ながら、カツラは神妙に頷いた。  「私は、ここで総裁を辞めるわけにはいかない。辞めたく、ない。」  アシュリーはきっぱりと告げる。カツラは首を傾げた。アシュリーの発言は、捉え方によっては私利私欲にまみれた、カツラが忌み嫌う人種の発言にも聞こえるが、それにしてはアシュリーの瞳は純粋すぎるくらい澄んでいた。  「私は臣民がより良く生きることができるようになるため、総裁になった。多分、枢密院が私に直接この事件に取り組むように言ったのは、先程の議会に対する汚名返上の意味もあるんだろうな。……非常に、ひっっっじょうに悔しいが、私はお前に情けないぐらい無様に負けた。普通に考えたら、私はここで総裁の座から引きずり落とされている。が、そうなっていないのは、枢密院の温情と……お師匠様の尽力、だ。」  アシュリーの脳裏に、優しく微笑むアンナの姿が思い浮かんだ。それを瞼の裏に一度ぐっと焼きつけて、それからアシュリーは静かに瞼を持ち上げた。  「ここで、お前に敗北したというくだらない理由で私の今まで積み上げてきたものを全て無駄にするなんて、絶対に嫌だ。私は、総裁でいるためならば何だってするし、何を言われたって構わない。それに、」  ここにきて、アシュリーはカツラに対し、初めてにこりと笑った。  その笑顔を真っ向から受けたカツラは、目を丸くすると、小さく後ずさる。  「私が総裁の地位のために死に物狂いですることが、結果的に臣民を助けることになるなんて、素敵なことだとは思わないか?」  顔は引きつったまま、それを聞いたカツラは、ため息をついた。後ずさった足をゆっくりと元の位置に戻し、フンと鼻で笑う。アシュリーはカツラの不遜な態度にむっとするが、特に何も言わなかった。  カツラはじろりとアシュリーを睨みつけた。  「わかったよ。お前がこの件を受けるのは純粋に……うん? 純粋か? まあ、とにかく、私利私欲のためではないんだよな?」 「当たり前だ。」  力強く頷くアシュリーに、ふっとカツラは笑った。  「じゃあ、いい。……とっとと治して、下手人をあぶり出そうぜ、アシュリー。」  アシュリーもカツラに倣って、にやりと笑うと、「お前って笑顔、怖いな?」 と真顔で言われたので、アシュリーは無言でカツラの向う脛を蹴った。カツラは声もなく、あまりの痛みに座り込む。アシュリーは、少しだけ溜飲が下がった。  しばらく痛みで動けなかったカツラは、ようやく痛みが引いてきたのか、若干青白いまま、顔をふっと上げると、アシュリーを挑発するかのように吐き捨てた。  「あ、これだけは言っておくぞ! もし、この事件の調査の最中にサラに何かあったら、ぶっ殺すからな。」 「サラに手を出させるものか、この馬鹿。と、いうか、殺される前にお前を殺してやる。」  すわ、口喧嘩が勃発か、というところで、アシュリー達の座っていた椅子がぐにゃりと曲がり、平衡感覚が失われる。  (ああ、戻るんだな。)  「なんだこれ!? 床が、曲がって……!?」  何やら隣でぎゃあぎゃあと騒いでいるカツラに対し、アシュリーは妙に冷静であった。それは、かつてこのような体験をしたことがあるためかもしれないし、あるいはキャロルコリンが含みを持たせたあの言葉のせいかもしれなかった。   ――「でも、それが『本当の狙い』なのかどうかは、疑問だけれどね。」  床が失われ、大きな暗い闇の穴の中に、アシュリーとカツラは放り出される。  アシュリーはふと、議会でのカツラを思い出した。  瞳を閉じて思い浮かぶのは、敬愛する師の姿。アシュリーの瞼の裏で、少女は心配そうな顔色で、じっとこちらを見つめている。  アシュリーは、脳裏のアンナに向かって、「お師匠様。」 と小さく呟いた。  (なあに?)  想像から生まれたアンナの小首を傾げる姿は、小動物のそれを思い起こさせた。 (カツラとの議会論争で、一つだけ不可解なことがあったんです。)  不可解なこと、と首を傾げるアンナに、アシュリーは自然と微笑んだ。  (何故か、あいつには私の『言葉』が通じなかった……届かなかったんです。) (ああ、あれね。)  アシュリーが指し示していることは、カツラに『反論』したとき、全くと言っていいほど、アシュリーの攻撃がカツラに効いていなかったことであった。  (『言葉』が届いていないと言いましたが、本当にその通りでした。あいつは、私の言葉なんてどうでもよかったんです。そもそも、同じ生き物として認識していなかった、というのが正しいのかもしれませんが。) (そうでしょうね。なんせ、カツラ卿は魔族を生き物として見ていることすら怪しい方ですから。)  にゅっと何の前触れもなく、突然登場した、同じく想像上のサラがアシュリーの言葉に同意する。本当に血がつながっている兄について語っているのか疑わしい程、冷たく暗い声色だった。  まあ、あくまで私の想像でしかないけれど、サラはカツラをあまり良くは思っていないようだ。  カツラと顔を合わせた時の、サラに苦虫を噛み潰したかのようなひどい顔色を思い出す。  (カツラのおかげで、『議会論争』について、また一つわかりました。あそこでは、言葉が届かなければ、存在しないのと同じ……無いものと同じなんですね。) (アシュリーは、そんなカツラ君と一緒に、調査できるの?)  アンナが、ぽつりと呟いた。アシュリーは、目の前に立つ自身の師の、綺麗に整ったつむじを見下ろした。  (ええ、まあ、一人よりは確実に効率が良いでしょうし、何よりカツラがいれば、軍部関係の捜査は有利に進められますから。)  例え、そのカツラがアシュリーを、同じ生き物として見ていなくとも。  アシュリーの想像から生まれたアンナは、俯いた。さらり、と肩から赤茶色の髪がこぼれ落ち、細くて白いうなじがちらりと顔をのぞかせた。  (アシュリーは辛くないの? 軍部と組むんだよ?アシュリーの大嫌いな。)  アシュリーは、彼女が――正しくは、自身の心が何を言いたいのかを、ここでようやく理解した。そのためか、アンナを模っていた「それ」はぐにゃりと曲がり、形を変え、生成されていく。アシュリーは「それ」を見て、目を細めた。  アシュリーの目の前には、幼い頃の自分自身が、じっとこちらを睨み上げていた。 (辛い、というよりは嫌かな。気持ち悪いし、吐き気がする。でも、私は先程言ったぞ?何だってするし、何を言われても気にしない、と。)  アシュリーは小さな自分に向かって、優しく微笑んだ。しかし、子どものアシュリーはそれを見て、辛そうに顔を歪める。内心、首を傾げるが、アシュリーは話を続ける。  (臣民のためならば、私はどんなことでもする。そうすることで、お師匠様やサラ、そしてほかのみんなを守れるならば。)  そう言って、綺麗に笑うアシュリーに、子どものアシュリーはぐしゃっと顔をしかめた。あまりにも醜いその顔をまじまじと見つめ、アシュリーは気がついた。  子どもは笑っていた。  (嘘つき。)  醜く顔を崩し、笑う子どもの顔が、手が、体が、足が、全身が、赤黒い血で染まっていく。アシュリーはそれに驚いて、子どもに触れようと手を伸ばすが、その前にパシンと、子どもから手を跳ねのけられてしまった。  (お前もあの餓鬼と一緒で、竜族を同じ生き物として見てないくせに。)  違う。  アシュリーがそう叫ぶもむなしく、哄笑と共に子どもはどす黒い血の海に飲まれて消える。  (綺麗事を言うな、嘘つきめ!)  「違う!!!!!!」  腹の底から叫んだ瞬間、勢い良く開いた目が強い光に焼かれ、アシュリーは思わず顔を両手で覆った。すると、隣にいたのであろうカツラが、おどおどとしながら、「え、何が?」 とこちらに向かって問いかけてきたが、生憎アシュリーにはそれに答えてやる余裕は存在しなかった。  「アシュリー、大丈夫? キャロルコリン卿たちに、何か嫌なことでも言われた?」 「師匠? どうされました?」  アンナとサラの心配そうな声が耳に飛び込んできて、アシュリーは(ああ、戻ってきたのか)と、少しだけ安堵した。しかし、先程の幼い頃の自身の声が、耳にこびりついて離れなかった。  「閣下、お怪我はありませんか!?」 「突然ブラックモア卿と共に姿を消したと思ったら、すぐに現れるんですもん! 驚きましたよ!」 「いやあ、ごめんな、アカネ、サクヤ。怪我もしてねーし、何もなかった! まあ、仕事は増えたけど……。」  アンナたちの声の他にも、カツラの部下がカツラを心配する会話をしているのが聞こえる。しかし、今のアシュリーには、それらの全てが煩わしく、嫌だった。  アシュリーは顔を手で覆ったまま、もう一度、「違う。」 と呟いた。         
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