ずいぶんとおせっかい

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ずいぶんとおせっかい

「紗菜(サナ)おはよ! ねえどうして昨日は電話くれなかったの? わたし待ってたのに」  そう言ってきたのは彼女の方だった。  早朝の下駄箱である。  紗菜は思わずうつむいた。顔を上げられなかった。視界いっぱいに、少女の靴。  精一杯の普通の声――小さな声で、紗菜は答えた。   「何度か、かけたんだけど。他の人につながって……」 「えーっじゃあわたし、登録間違えたのね! ごめーん紗菜、怖ぁい声で怒られちゃったりした?」    紗菜は首を振った。男は優しかった。だがそれは結果論だ。あの低い声を聞いた瞬間、全身が凍ったのを思い出す。紗菜は震えた。   「突然、大人と話すのって怖いよね」    口にしたとたん、ボロリと涙がこぼれ出た。ぎょっとしてのけぞる穂波――乱暴に拭い、紗菜は駆けだした。  自宅へ逃げ帰るのではない。教室に向かって、ひとり堂々と進んでいった。    夕食をとり、学習をして、入浴する。  湯気の立つ髪に寝間着姿で、紗菜は携帯電話を握っていた。  なんとなく、電話帳の項を開いてみる。父と母と、それから『穂波』。しかし決して彼女にはつながらない。冷たい機械を、紗菜は眺めつづけていた。   「……なんていってたっけ。珍しい苗字……なんかすごくカッコいい、ちょっと怖そうなの。……ヒュー、ガ……?」    呟いた瞬間、手の中で、携帯電話が高らかに鳴った。『穂波』の名前が画面に浮かんでいる。紗菜はすぐ、通話ボタンを押した。   「もしもし。峰岸紗菜でございます」 『……ヒュウガだけど。そんな馬鹿丁寧にフルネーム名乗らなくても大丈夫だ。いろいろ危ないからやめておけ』    よくわからない注意をされた。  しかしきっとなにか大事な意味があるのだろう。  紗菜は素直に礼を言った。   「親切にありがとう。これからはそうするわ」 『けっこう、元気な声だな』    彼は言った。   『友達と仲直りは出来たのか?』    どうやらそれを気にして、かけて来てくれたらしい。紗菜は胸を張った。   「ううん、喧嘩してきちゃった」 『……そうか』 「でもあたし負けなかったよ」    言った途端、なぜか急におかしくなった。クックッという紗菜の笑い声に、つられて向こうでも吹き出す。   『なんだ、けっこう強いんだな。心配する必要なかったか』    ホッと、気の抜けた声。どうやら本当に心配してくれていたようだ。  紗菜はなんだか申し訳なくなった。   「あの――ホント、大丈夫なの。きっともともと、友達ってわけじゃなかったから」 『……そうかい? でも――」 「穂波ちゃんは、幼馴染でね。小学生のとき塾が一緒だったの。あの子のおうちがすぐ近くで」 『……うん?』 「塾のあと、お母さんが迎えにくるまでおうちに入れてもらってた。校区は違ったし、他の日に待ち合わせて遊ぶことはなかったけど……週に二度、家族も一緒にゲームしたりして、だから」 (だから、友達だと誤解してしまっただけ――)   と、いう言葉は口にできなかった。浮かびかけた涙をグッとこらえ、紗菜は努めて、明るい声を出した。   「ありがとうヒュウガさん。あなたが今日、電話してくれなかったら、あたしきっと一人で泣いてた」    ヒュウガは鼻で笑った。 『そんな、大げさな』   「本当よ。買ってくれたお父さんに八つ当たりしたかも」 『……じゃあ俺はあんたら親子の恩人だな。どうしても金一封贈りたいというなら、受け取ってやらんこともないぞ』 「そうね。あたしのお小遣いで足りるなら。ヒュウガさんお酒は好き? お父さんがいつも飲んでるやつを贈ろうか?」    紗菜の言葉に、男はウッと呻いた。頭痛でも抑えるような低い声で、   『調子狂うな。ボケとツッコミが成り立たない。君はちょっとばかり素直すぎるよ』 「……あたし、話しにくい?」    いいや、と彼は即答した。   『気が抜けて笑っちまう。俺、学校じゃクールで怖いヒトなんて言われてるんだぜ』    どこがクールかと紗菜は呆れた。紗菜が素直すぎるというなら、このヒュウガはずいぶんと親切すぎる男である。間違い電話をかけた相手に、その後を心配しかけなおしてくるやつがどこにいるのだ。   ヒュウガへの感謝は、お世辞でも誇張でもなかった。昨日つながったのが彼でなければ、今日は彼の電話がなければ、紗菜はこんなに明るい声を出せなかった。  そう話すと、穏やかに笑われる。   『お役に立ててなにより。できれば、友達と仲直りした方がいいと思うけどな。学校生活って、やっぱり友達の存在がなにより大きいし』 「ヒュウガさんは大学生よね」    唐突に、紗菜は尋ねた。ンッ? と素っ頓狂な声のしばしあと、呻くような声が聞こえてきた。   『なんだよ藪から棒に。……俺、そんなこと言った?』 「言ったわ、学校じゃクールだとかなんとか」 『教師とか用務員のオッサンという選択肢もある』 「うそよ、話し方が若いわ」 『中学生って可能性は』 「あたしより年下が、そんなに低い声のわけないじゃない」 『……君、男の声なんて父親以外聞いたことあるのかよ。さて、いい加減電話を切るよ。オコサマはもう寝る時間』 「まだ九時だわ」    笑いながら、紗菜は頷いた。  こんな所作は、相手には全く見えていないことを思い出す。それでも改めて、居住まいを正した。ベッドの上に正座して、頭を深く下げる。   「本当にありがとうございました。……あの……お世話になりついでに、お願いがあるんだけど……」 『なんだ?』 「あたし、友達を失くしてしまって……この番号を、電話帳に登録してもいい?」    電話の向こうで、ヒュウガが苦笑する気配がした。わずかに口角を持ち上げた、機嫌のいい声で。   『いいよ。落ち込むようなことがあったらいつでも電話しておいで』 「……ありがとう! おやすみなさいっ」    元気よく挨拶し、笑いながら、紗菜は通信終了のボタンを押した。    さほど長電話でもなかったのに、電話機はすっかり熱を持っている。  仰向けに寝転がり、顔面の上で携帯電話を操作する。五分ほどの挌闘の末、電話帳の名前変更に成功した。フウと大きく息を吐き、胸の上に手を落とした。  ヒュウガ……紗菜の周りにはいない苗字だ。彼が住む、はるか遠くの地域にはよくあるものだろうか。  ヒュウガ、ヒュウガと口にしてみる。頭の中で漢字変換は出来なかった。  「……ヒュウガさん。どんな字を書くんだろう」    ぼんやり天井を眺める。  そしていつしか眠りについた。
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